「神が共にいる1年」イザヤ62章1節~5節

 

あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。                      イザヤ62章2節

 

みなさん、あけましておめでとうございます。今年は不安を抱えながらのスタートです。神様がいるならどうして、こんな禍が起きるのでしょうか。神様は私たちを見捨ててしまったのでしょうか。実は神様の子、イエス・キリストも同じ疑問を持った人でした。「わが神、わが神なぜ私を見捨てになったのですか?」。イエス様はそう問いかけながら、死んでいったのです。私たちも今、イエス・キリストの十字架の叫びがよくわかるかもしれません。

しかし、聖書は語っています。イエス・キリストが一番苦しい十字架の時も、神様はイエス様と一緒にいたということです。神の子が死ぬとき、神様はそれを止めなかったけれども、神は共にいたということを聖書は語っています。旧約聖書の言葉ヘブライ語ではそのことを「インマヌエル」といいます。神はわれわれともにいるという意味です。神はどんな時も最後の最後まで私たちと一緒にいてくれるお方だと聖書は語ります。その希望を胸にいただき、私たちは1年をスタートしたいのです。

実は今日の聖書の物語も再スタートをする人々の物語です。当時イスラエルは戦争で負け、町や神殿はめちゃくちゃにされ、人々は強制的に移住をさせられていました。そしてこのイザヤ書62章の時代では、人々がその強制移住を終えて、故郷に戻ったという場面です。希望を持った再スタートだったでしょうか。でも目の前には見捨てられた町が広がっています。

そんな再スタートを切ろうとする人々に、神様の声が響いたのです。1節にある「わたし」とは神様の事です。神様はどんなときにも私たちに黙らずに語って下さるお方です。2節の「あなた」は神様の事です。神様の正しさを全員が見る、目で見る時が必ず来るということを示しています。3節の「あなた」は、今度は私たちのことです。私たちはやがて王冠となります。王冠とは、誰が一番偉いのかを示すしるしです。4節の「あなた」も私たちのことです。コロナにかかるならば、隔離され、見捨てられたと感じるでしょう。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。5節、それは結婚するように神様が共にいてくださるということです。

このように神様は、イスラエルの人々の再スタートに共にいるお方です。そして共にいることは神様の望みであり、喜びであると語っています。私たちも神様が必ず共にいてくださることを信じてこの1年をスタートしたいのです。激動の1年が今日からスタートしました。でも神様が共にいてくださる1年のスタートでもあります。この1年もまた、決して黙らない、決して途絶えない神様のみ言葉を聞きながら、希望を持って共に歩みましょう。