「『なぜ』と共にいる神」マタイ27章45節~47節

イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マタイ27章46節

 

私たちはコロナの出来事から何を受け取ったら良いのか、神様へ問います。コロナの時期とは、ずっと神様に問い続けている時期でもあるでしょう。そしてその中に、神様との出会いが隠されている時期ではないでしょうか。問われた「なぜ」ということを大切にしたいのです。今日は聖書から、十字架の絶望と希望の間にあった「なぜ」という問いに、神様との出会いが隠されていたのではないかということを見てゆきたいと思います。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」この十字架の叫びには大きく分けると3つのとらえ方があります。ひとつは絶望と受け取る解釈、もうひとつは希望と受け取る解釈、そして3つ目はその間と受け取る解釈です。

まず叫びを絶望と取るでは、イエス様は確かに神様に「見捨てられた」という絶望を味わっています。神様は私たちと同じ無残な死の苦痛を味わうお方なのです。死は美しい死ばかりではありません。それほどに神様は私たちの死の苦しみを知って下さっていると受け取ることができます。

2つ目の解釈はこの叫びは希望だという、正反対の解釈です。特に遠藤周作の「イエスの生涯」によって広がっています。この叫びは苦難から希望へと変わっていく詩編22篇の冒頭の個所であり、苦難の中でも、神様を堅く信頼し続けた姿ととらえます。しかし詩編の冒頭の言葉を言えば全体を示すという習慣はありません。美しい解釈ですが、可能性は低いと思います

3つ目の解釈はその間ともいえる解釈です。この解釈では叫びの中の「なぜ」という言葉に注目します。イエス様の最期の叫びは、「なぜ」という神様への懸命な問いだったのです。そしてイエス様は疑問をぶつけながらも、神様に呼び掛け続け、神様との関係を諦めてはいません。苦難の中でイエス様は懸命に「なぜ」と神様に向けて問い続けたのです。そしてその叫びの先にこそ神様がおられたのではないでしょうか。誰よりもその叫びをしっかりと聞き取っていたのが神様だったのではないでしょうか。イエス様が「なぜ」と叫ぶ、そのただなかに神様と出会いがあったのではないでしょうか。

私たちも苦難の中で神様に呼びかけ、「なぜ」を問い続けます。その問いの先に、その中に神様がきっとおられるのだと思います。その問いと共に、問いの中にきっと神様がおられます。これからも私たちには様々な問いは続くでしょう。でも必ずそこに、神様との出会いがあるはずです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、“なぜ”私を見捨てるのですか」今週、その問いの中で、神様とまた出会ってゆきましょう