「断食か、食堂か」マルコ福音書2章23節~28節

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。     マルコによる福音書2章27~28節

 

こひつじ食堂から福音を聞いています。4月15日(金)「受難日」「聖金曜日」多くの教会で受難日祈祷会を持ちました。その聖なる日に私たちは食堂をOPENしました。いつも祈祷会が行われている部屋で料理が作られ、いつも礼拝している会堂には近所の人が集まり、お弁当が販売され、おまけとしてコーヒーが配られました。聖なる日に、聖なる場所で、なんということでしょうか!

私たちの選びは、誰かのために何かを「する」ことの大事さを示しているのではないでしょうか。聖なる時間は大事です。祈ることは大事です。でも私たちは礼拝するだけではなく、人々のためにできることをしてゆきたいのです。この体を、この会堂を、他者のために使いたいのです。それが私たちが聖金曜日に食堂をする意味です。

私たちはいっぱい祈り、いっぱい礼拝します。そして地域のために、隣人のためにいっぱい働くのです。今日は、神様は私たちに、祈り、明日からまた善き行動を起こすように促していることを見てゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。 

イエス様は律法違反を指摘する人たちにダビデの話を始めます。祭司は供えてあったパンを分かち合いました。そのパンは本来、祭司しか食べることが許されていない、聖なるパンでした。しかし祭司はダビデとそれを分かち合ったのです。それは良いことをするのは物や、日時や場所を選ばないということです。必要としている人と分かち合う事、それをしてはいけないもの、日、時、場所はないということです。どんな時でも、どんな場所でも、慈しみの分かち合いは許されるのです。

この個所でイエス様は、何々をしないという事だけでなく、何をするかに注目をさせます。してはいけないことだけではなく、すべきことに目を向けさせます。

私たちは1週間の始まりの日曜日を、祈り、礼拝することから始めます。そして私たちはそこで終わらず、この1週間善き事をしたいのです。27節に「安息日は人のためにある」とあります。安息日は人のために善き事を始めるためのスタートです。人のために何か行動を起こす、そのスタートです。私たちはこの安息日をスタートに1週間、何か善き事をしたいのです。すべきことをしたいのです。

私たちは、祈りつつ、そして善き事を行うことが求められているのではないでしょうか。だから受難日に祈りつつ、働くのです。27節の「安息日は人のためにある」とは、安息日が私の魂ためにあるということ、そして安息日が他者のためにあるということです。そしてその安息日は主イエスのものなのです。

聖なる会堂、聖なる体は、他者のために使われる時、本当に聖なるものとなるのです。私たちはこの安息日から1週間をスタートします。神様から力をもらい、他者のために、善き事のために働く1週間を始めます。私たちはこの礼拝から、それぞれの場所へと派遣されましょう。そしてこの会堂でまた分かち合ってゆきましょう。お祈りいたします。