「平和をあきらめさせない神」マルコ9章14節~29節

1ヶ月間、平和をテーマとして宣教をしています。私たちの教会は平和をあきらめずに祈り続けてきた教会です。私たちが祈る間にも、たくさんの戦争が起きました。それでもあきらめず平和を祈っていくことは教会の大切な役割です。憎しみや衝突に対して暴力ではなく、愛と和解、感謝すること伝えてゆくことが教会の役割だからです。私たちは争いが続くこの時代にあって、あきらめずに平和を祈ってゆきましょう。平和をあきらめさせようとする力こそ悪霊の力です。

教会にはたくさんのあきらめない祈りがあります。周囲は共に祈ることが大切です。今日の聖書から平和への祈り、他者への祈りをあきらめずに続けるイエスの姿を見てゆきたいと思います。

今日の個所の少し前、イエス様は山の上で光り輝く姿となってから、下り、人々が議論し、争う場所にやってきました。それは私たちが争いあう現実の世界にイエス様が来て下さるということを示しています。

そしてイエス様は病気のこどもの父親があきらめかけていることを感じました。悪霊とはあきらめさせる力です。もうダメだ、そうあきらめさせるのが悪霊の力なのです。父親は悪霊に負けそうになっていました。あきらめかけていたのです。イエス様は23節「信じる者は、なんでもできる」と言います。神様への信頼があれば、私たちはすべてが可能となるときまで、あきらめずに祈ることができるのです。

「信じます!」という父親の言葉は24節「叫び」でした。私たちもそのように祈っていいのです。祈りは叫びです。美しい言葉にならなくてよいのです。そしてこれは息子自身の祈りではなく、周囲の人々、周囲の大人の祈りです。周囲の大人のあきらめない叫びが、神様に届いたのです。そして25節、イエス様は悪霊をしかりつけて追い出します。イエス様はこの物語から希望を教えてくれています。私たちがあきらめそうになる時、そのことをもう一度祈れ、あきらめるな、祈りよってこそ、このあきらめは追い出すことができるという希望です。

私たちは何かをあきらめそうになっているでしょうか。私たちはあきらめずに祈り続けたいのです。特に平和について祈り続けましょう。悪霊の力はいつも、私たちをあきらめようとさせます。私たちはその悪霊を追い出すように祈りたいのです。父親の祈りが叫びだったように、私たちも祈り叫びましょう。声をあげましょう。平和が欲しいと神様に叫びましょう。そして実はイエス様も叫んだお方です。イエス様こそ暴力のただなかで平和を求めて叫び、神に祈ったのです。私たちも暴力が満ち溢れる世界の中で、あきらめずに平和を主に叫び願ってゆきましょう。

この後、主の晩餐を持ちます。この杯は十字架の主が流した血を象徴します。イエス様こそ暴力のただなかで叫び、血を流し、平和を祈られた方であったことを覚えてこの杯をいただきましょう。そして私たちも叫び、平和を祈りましょう。