「ひと皮むく神」ルカ3章15~18節

今日は礼拝の中で、成人祝福祈祷を行います。神様はこどもも、親も、高齢者も、若者も、すべての命を喜んでくださるお方です。私たちにはそれぞれの世代に良さと不足があります。そんな私たちは、お互いの命を祈り合いたいと思います。

麦を食べるには、麦の実の周りについているもみ殻を取る必要があります。穂は打穀された後、箕(み)というカゴに移され、空に舞い上げられました。舞い上げたところに風が吹くと、もみ殻やごみが吹き飛ばされたのです。

もみ殻とは何を指しているのでしょうか。これは神様がキリスト教を信仰する人としない人をふるい分けるということでしょうか。ヨハネもそのような厳しい神様の姿を想像していたかもしれません。でもヨハネは同時「私より優れた方がやって来る」と言っています。神様は私たちの一部分がダメだからといって、すべてを燃える炎に、地獄に投げ込まれるような厳しい方ではありません。

私たち一人一人は麦の穂です。もみ殻とは私たちの一部分です。でももみ殻は本当の私たちには必要のない部分です。それは私たちの欠点、罪、悪い部分とも言えるでしょうか。神様は私たちにとって、必要なものと、必要ないものをふるい分けて下さるお方です。そして神様は私たちの良い部分だけを残してくださるお方なのです。私たちのもみ殻は風に吹かれると、吹き飛ばされて無くなってゆきます。聖霊は風とも読み替えることができる言葉です。聖霊、すなわち風が私たちの間に吹いて、私たちのもみ殻を吹き飛ばしてくれるのです。神様はこのようにして、私たちを一皮むいてくださるお方です。むけた部分は永遠の炎で焼き尽くされます。神様はそのようにして私たちをみこころにかなう者としてくださいます。教会は脱穀場の様に一皮むけようとする人の集まりです。

16節でヨハネは、私はイエス様の履物の紐をほどく値打ちもない者だと言っています。しかしイエス様は弟子の履物の紐をほどき、足を洗ったお方でした。もみ殻が吹き飛ばされて、一皮むけた人は、きっとイエス様のように生きるようになります。他者の上に立ち、裁き、滅ぼすのでありません。本当に神様の風に吹かれた者は、他者を下支えする者となるのです。

私たちはこの後、成人祝福祈祷の時を持ちます。一人一人のもみ殻が吹き飛ばされ、燃やされ、実だけが残るように、豊かな人生が歩めるように祈ります。そして他者の履物の紐をほどくような、仕える者、他者を下支えするような者になって欲しいと願います。私たちも神様の風に吹かれ続けてゆきましょう。そして他者に仕える者、他者を下支えする者になってゆきましょう。今日私たちは、お互いに神様の風が豊かに吹くように祈りましょう。お祈りします。