誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 マタイ4章4~5節
「悪魔は本当に存在するのですか?」この質問に対して私は「悪魔は存在しません」と答えています。しかし聖書の悪魔が登場し、人格があり、自由に飛び回り、人間を誘惑し悪い事をさせます。本当にこのような悪魔は存在するのでしょうか?
悪魔という実体、そのものが存在したのではありません。非人間的な行動、人の尊厳と愛を踏みにじることをした人が象徴的に悪魔と呼ばれたのです。一方、悪魔そのものは存在しなくても、悪の塊のようなことは数多く存在します。世界の不平等や戦争は人間が悪魔的存在にならないとできないことです。それは悪魔の仕業ではなく、人間が罪人であり、人間の悪魔の様な行動です。
悪魔はイエス様に「石をパンに変えてみろ」と言います。この中に潜む悪は、奇跡による即席の解決を期待するという悪です。食べ物の不足は奇跡ではなく、すべての人にパンが行き渡るような、平等で平和な社会をもって解決すべきです。奇跡より必要とされたのは社会の変革です。しかし悪魔は「石の方が変わればいい」と言うのです。悪魔的な存在はいつも私たちを、問題の本質から目をそらせようとします。
イエス様はそれに対して4節「人はパンのみで生きるのではない。神の言葉によって生きる」と言います。イエス様は石をパンに変えるのではなく、み言葉によって人間を変えることによって問題を解決しようとするのです。
6節も同様です。悪魔の生き方は奇跡だけを期待する生き方です。神様が都合の悪いことのすべて解決をしてくれる、そう簡単に思ってはいけません。9節にも誘惑があります。自分の思い通りに相手に動いて欲しい。自分のものにしたい。そのような悪が私たちの中にあります。イエス様はそのような誘惑をきっぱりと否定しました。そして10節、私たちは「共に神に仕える者」だと言うのです。それは、人間は神様の前で、互いに平等で、尊重し合う存在だという答えでした。
悪魔の提示する解決方法はどれも、即席の解決方法です。イエス様はことごとく、この即席の神学を否定します。イエス様は、即席の解決よりも、神の言葉が大事だと言います。毎日毎日、食事を食べる様に、少しずつ神様の愛の言葉を聞いて生きる事が重要だというのです。そのように私たちは神様の言葉によって、私たちは少しずつ変えられ、共に生きるようになります。
悪魔そのものはいません。物事を悪魔のせいにしてはいけません。そのような即席で簡単な見方、解決方法こそ、悪魔的な発想です。私たちも時に現実に向き合うことは大変で、逃げたくなる時もあるでしょう。しかし、神様はそのような私たちを変えるために、愛の言葉を与えてくださるのです。私たちに求められているのは、神様の言葉を聞くこと、そして変わることです。神様はその言葉によって、私たちを変えて下さるお方なのです。お祈りします。