いっしょに

「いっしょに遊ぼう」「いっしょに行こう」「いっしょに生きていこう」。だれかから「いっしょに」と言われると、うれしい。一方では「自分でやれ」「ひとりでできるだろう」「他人に頼るな、甘えるな」と言われて育ってきた。確かに厳しい社会を生き抜くには「自立と自律」が必要だ。しかし、「いっしょに」と言ってもらうと、自分は独りぼっちじゃない、見捨てられていないと感じて、少しは頑張れそうな気がしてくるから不思議だ。

 良い親は「こうしなさい」「ああしちゃいけない」と模範を示しながら、「いっしょにやってみよう」「お母さんも我慢するから、あなたも守ってね」と、いっしょの低い目線で励ます。良い教師は「さあ、ここまでこい」と目標を示したり、「何でそんなことをしたんだ」と反省を促しながら、一方「いっしょに学ぼう」「おれも背負うから、お前も頑張れ」と励ます。共に汗を流す。

 たぶん人間は、いっしょにいるように造られているし、いっしょにいるときが一番うれしくなるように定められているのだろう。旧約聖書の創世記には、神は始め一人の人間を創造したが、やがて「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助け手をつくろう」と言って、もう一人の人間を創造し、二人をいっしょにいるようにしたとある。

 つまり、「他者」とは、「いっしょにいるべき助け手」なのだ。いっしょにいてもちっとも助けてくれない、と感じることもあるかもしれないが、いっしょにいること自体が、すでに助けなのだ、ということである。独りでいることはそれ自体がすでによくないのだ。この世で、他者から言われて最もうれしい言葉の一つは、間違いなく「あなたといっしょにいたい」だと思う。 
 聖書にはイエスの別名として、「インマヌエル」という名が記されている。これは、「神はわれわれとともにおられる」という意味である。ともかく神は、どうしても、あなたといっしょにいたいのである。それは神の愛から出てくる必然である。