詩編を通読して

水曜日午前の祈祷会で「詩編」1編から読み始めたのが2011年9月14日。今週の祈祷会で最後の150編となるので、まる3年かかったことになる。当初は、あまりに長いので途中で飽きるかもしれない。そのときは50編ぐらい読んだら、他の預言書などを読んで、また詩編に戻るのもいいかなと考えていた。ところが、毎週毎週1編づつ読み進めていくうちに、そのような考えはどこかいってしまった。詩編の魅力に引っ張られてきたというべきか。

 神学校時代、旧約の授業で、小林洋一先生から「皆さんが旧約聖書の中で一番好きな『愛読書』をレポートするように」と宿題が出された。私はためらわず「詩編」を選んだ。ところが、取りかかってみて、後悔した。なにしろ分量が多い。そして1編1編の詩の中には、それぞれに豊かで深いメッセージが込められている。精読し、釈義し、内容をまとめ、さらにそれへの応答の感想を書くとなると、とても1カ月の締め切りに間に合わない。でも、乗りかかった船、今回消化不良で終わっても、将来じっくり詩編と取り組む機会があるだろうと、そのための予備学習と位置づけ、最善を尽くした。その機会が今回だったのである。

 私のように「詩編」の愛読者は多い。それだけ魅力があるのだろう。詩編の言葉は、私のために書かれたかのように語りかけてくる。詩編によって私たちは、不安や試練の体験を語り始める。魂が傷つき、痛んでいることを単純に無視せず、悲しみを表明させてくれる。詩編は、こうして自分の魂と対話をすることができるようにしてくれる。義務や押しつけではなく、魂から生まれる賛美の言葉を与えてくれる。詩編ほど慰めと励ましと賛美の力を与えてくれるものはないだろう。

 詩編の最後150編の締めくくりは「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」である。150編では、神を賛美せよとのフレーズが10回にわたって繰り返される。賛美するとは、信仰者が当然行う信仰の応答や表明の行為。喜びと感謝をもって賛美しよう。