キャンドルサービスメッセージ「万軍の主の熱意」 イザヤ書9章1~6節

このイザヤの預言は、もともと前8世紀、アッシリアの侵略に対して、王なるメシア(救い主)を起こし、これを打ち滅ぼすことを告げたものだ。そのため王として生まれる幼子は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と讃えられるのであり、神の支配を地上にもたらす者とされる。

 当時すでに北イスラエル王国は滅ぼされていた。そこでイザヤは、南ユダの国で新しく即位する王ヒゼキヤへの期待を込めて、預言した。それは、アッシリアに勝利し、その支配をはねのける軍事的メシアの姿だった。期待とは裏腹に、ヒゼキヤはそのようなことは実行できず、この預言は実現しなかったかと思われた。しかし、これが後に、幼子イエスのご降誕を預言するものとして読み継がれてきたのである。

 1節で「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」とイザヤは告げている。この「見る」は過去形の言い方である。正確に言うならば、いまだ見ていないが「見た」と言えるほどに確かな約束であると言っているのである。だから、マタイ福音書では、主イエスがいよいよ伝道を開始されるときにこの預言を引用している(マタイ福音書4章14-16節)。

 2節は人間が自分の努力、自分の力で喜ぶのではなく、神がしてくださるゆえに神の前で喜ぶことを言っている。3節の「ミディアンの日」とは、士師ギデオンがミディアン人を打ち倒した日のことであるが、それは神がミディアン人を打たれたのであって、決してイスラエルの人々がミディアン人に勝ったのではない、神が業をなされているのである。

 4-6節は、そんなことができる可能性がどこにもなかった時に、イザヤが行なった預言である。この預言、必ず成就するとの信仰は、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」という過去形で表される。前にも言ったように、未来に起こることであっても、それが確かに起こることであるならば、すでに起こったと同じであるとの意味がここにはある。

 そして、長い時を経て、王なるメシア(救い主)到来の預言は、神の確かな約束に基づいてベツレヘムの家畜小屋に生まれた幼子イエスに成就したのである。マタイ福音書には、占星術の学者たちが登場し、幼子を拝し、黄金、乳香、没薬を捧げたとある。幼子が王であることを明らかにしているのである。しかも、彼らはそれを礼拝という形で表した。

 イザヤは言う。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。私たちは「万軍の主の熱意」、「神の熱い思い」「神の愛」、そのことの成就としてのイエス・キリストのご誕生とその生涯、とりわけ十字架と復活の出来事のゆえに、どんな(闇など)状況の中にあっても、望みを持って生きていけるわけである。神に信頼し、委ね、希望の光を見詰めつつ歩んでいこう。