みなさん、おはようございます。今日もこうして、みなさんと同じ場所に集まれたことを神様に感謝します。実は、ここに集うことは当たり前ではありません。教会は、時に、静かに姿を消していくことがあるからです。今日は少し強い言葉ですが、まず「教会の消滅」についてお話をします。
みなさんは教会の消滅という言葉を聞いたことがあるでしょうか?昨今のキリスト教会は体力を落とし、「閉鎖」をする教会も出てきています。近くの日本キリスト教団の教会も閉鎖に向けて手続きをしていると聞きました。教会の閉鎖は私たちにとっても他人事ではありません。教会の閉鎖は悲しいことではありますが、ひとつの教会が歴史の中で役割を終える時は必ず来るものです。聖書に出て来る、手紙をもらった教会の数々も、今日のコリント教会も今では残っていません。歴史の中で役割を終えることはあるものです。
ただ教会の閉鎖と違うものとして、教会の「消滅」があります。消滅とはとても寂しい響きの言葉です。教会の消滅とは、電話をしても出ない。手紙を出しても返事がない。訪ねても、礼拝が行われている気配がない。それが長く続きます。そしてある日連盟から「閉鎖しました」ではなく「消滅が確認されました」と連絡がきます。私はその言葉を聞くたび胸が痛みます。
しかしもちろん、教会はある日突然、消滅するのではありません。消滅はゆっくりと長い年月をかけて起こります。集会に集わなくなる。教会の近況を聞かなくなる。「最近どうしていますか?」と言う人がいなくなる。そのようにしてまず孤立が起きます。
孤立した教会はどうなるのでしょうか。孤立をすると、他の教会が今どんなことに重点を置いて活動をしているのかを知らないということが起こります。他の教会を知らないと「自分たちは今、何を大切にしている教会なんだろう?」も見えにくくなります。違う教会を見るから、自分も見えてくるのです。
人間関係と少し似ています。孤立すると他者と自分がどう違うか分からなくなってしまうのです。孤立した教会は、他の教会からの刺激がなく、新しい活動も始まりません。気づくと、ずっと同じ。新しい風が吹かない。「前からこうだから」で止まってしまう。そして少しずつ元気を失ってゆくのです。
私たちはどうでしょう。少しずつ孤立してしまうことはないでしょうか。
さらに年月が経つと、教会を支えてきた人々が高齢になります。牧師も退きます。そうして支え合いが弱まる時、孤立が深まることがあります。
私たちの教会は孤立していないでしょうか?私たちは自主独立した教会です。でも独りぼっちではありません。元気であり続けるために協力をしています。他の教会に出会うと気づくことがたくさんあるのです。「こういう祈り方もあるんだ」「こんな礼拝や賛美の方法もあるんだ」「こんな風に地域に出てゆく教会もあるんだ」違いを見ると、自分たちも見えてきます。そのようにして、私たちは自分自身が元気であり続けるためにも協力をしています。私たちは独りではありません。
私たちはこれからも他の教会から刺激を受けて新しいことをはじめましょう。また、私たちが他の教会の刺激になってゆけるようにしましょう。
今日の信仰告白7教会の最後の一文には「私たちの教会は自主独立であるが、他の教会との交わりと協力を惜しまない」とあります。私はこの一文がとても大事だと思います。それは教会同士が群れになって、協力しあい、励まし合うことが大事だという告白です。それが教会が存続するのに不可欠だと告白しているのです。
このように教会が元気であり続けるためには協力が必要です。そしてそこから大事なことがわかります。もし教会単位ですら協力が必要不可欠なのだったら、私たち一人一人の信仰はなおさら協力が不可欠だということです。
私たち一人一人の信仰も教会単位で起こることと同じことが起こります。信仰は孤立すると元気を失うのです。
信仰告白には「教会はイエス・キリストのからだ」であるとあります。この言葉は今日読んだⅠコリント12章から来ている言葉です。この手紙は最初はパウロからコリントという一つの教会に送られたものでした。しかし、いつからか他の教会の人々が、私たちにも当てはまると感じ、読みまわしたのです。教会はそのようにみ言葉を分かち合って来ました。
それはまるで私たちは体が一部分だけでは存続できないのと同じです。私たちには目として先々の事を見通して励ましてくれる人が必要です。口となって不安な時「大丈夫だよ」と言葉にしてくれる人が必要です。耳になって声にならない小さな声を聞いてくれる人が必要です。教会同士でも、そして教会の中の個人同士としても、そのような支え合う相手が必要なのです。
私たちはそのように他者との間で自分に有るものと無いものを確かめつつ、自分ができる励ましを他者に与え続けることが必要です。そうすることで私たち一人一人の信仰が守られてゆくのです。私は誰に支えられているでしょうか?誰の支えになっているでしょうか?
教会だけではない、個人個人も一人で信仰を守ることは難しいことです。人生の苦しみの中では、祈れなくなることもあります。そんな時、誰かの祈りを聞くと心が支えられることがあります。他者が何を信じているのかを感じると、自分は何を信じているかに改めて気づかされます。神様は今日、誰を通してあなたを励まそうとしているでしょうか?
そして私たちが、自分たちで集まっているのではないということも信仰告白には書かれています。私たちは相互協力といった利害関係で繋がっているのではありません。それを超えた力で集まっています。信仰告白には私たちは「呼び集められた者の群れ」と書いてあります。呼び集められたという言葉は、エクレシアという言葉で、神に招かれた群れという意味です。私たちは自分の判断で、自分の損得で、ここに来ているのではありません。私たちは神様に呼び出されて、ここに集っているのです。神様の呼びかけに応答して、今日同じ場所に集っているのです。
私たちは時々、「人と関わるのは疲れる」と思います。教会に行く元気がない日もあります。誰とも話したくない時もあります。人生にはそういう季節があります。病気をした時。家族のことで悩む時。仕事がうまくいかない時。歳を重ねて、昔できたことができなくなった時。祈る言葉すら出てこない日があります。
そんな時、人は少しずつ孤立します。自分のことが分からなくなります。「私は何を信じていたのだろう」と心が曇ることもあります。けれど神様は、そんな私たちを独りにしません。
神様は私たちを呼び集め、群れとします。そしてそこで誰かの言葉を通して、誰かの祈りを通して、誰かの笑顔を通して、神様は私たちに呼びかけています。「あなたは独りではない」「新しい方法が見つかるはず」「一緒に生きよう」と。教会とは、立派な人が集まる場所ではなく、支えが必要な人が集められる場所なのかもしれません。
だから教会には、強い人だけがいるわけではありません。迷う人もいます。不安な人もいます。疲れている人もいます。信じたいけれど信じきれない人もいます。祈りたいけれど祈れない日もあります。
けれど、そのままでよいのです。私たちは完成した人としてではなく、呼び集められた者としてここにいます。誰かに支えられながら、誰かを支えながら、少しずつ生きる力を取り戻していく。そのために教会があるのかもしれません。
これは大事なことです。それは教会同士にしろ、個人にしろ、神様がその関係、その協力の中心にいるということです。神様が私たちを結び付けようとしているということです。神様は他者を通して、私たちを支えているのです。
神様は、あなたは独りでは生きていけない、独りでは荷が重すぎると言って、私たちを呼び出し群れにしているのです。
私たちは呼び集められ、群れとされます。そして自分と違う特徴を持つ人と一つの群れにします。私たちは互いと自分の違いを知ります。その中で真似をしあったり、励ましあいながら生きるようになります。たったひとりでは、気づけなかったことを知るようになります。神様はそのような群れへと私たちを呼び集めているのです。
今日の聖書と信仰告白から何を問いとしましょうか?私たちはどのように他の教会と協力できるのでしょうか?他の教会と私たちが信じていることの共通点と小さな違いはなんでしょうか?
私たち個人個人として、どう協力し、どう互いに励まし合いながら生きてゆけるでしょうか?神様が私たちをここに呼び集め、群れ、仲間としてくださいました。私とあなたの共通点と違いはなんでしょうか?神様がこの出会いを私たちに準備してくださいました。私たち一人一人が神様から信仰と愛の交わりに招かれています。それは互いに平等で、交わりと協力を惜しまない関係です。それが私たちの教会です。神様が今日、あなたをここへ呼びました。あなたもこの群れの大切な一
