「問いとしての聖書」Ⅰコリント14章34~36節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝をできること、神様に感謝をいたします。6月・7月と私たちは教会の信仰告白について一緒に考えて来ました。今日でこの信仰告白のシリーズは最後です。神について、イエスについて、聖霊について。みなさんの心の中に、何かひとつでも残った言葉はあったでしょうか。そして今日は最後に、聖書について考えます。

 

みなさんは何かに迷った時、何を頼りにするでしょうか。家族の言葉でしょうか。自分の経験でしょうか。インターネットでしょうか。私たちクリスチャンはよく「聖書」だと言います。でも、その聖書とはいったいどんな本なのでしょうか?

 

他の宗教には、お筆先という考え方があります。神の言葉をそのまま書き記したという理解です。では聖書もそうなのでしょうか。キリスト教の聖書はそのように「神様の言葉を直接書き留めたもの」ではありません。では一体どんなものなのだろうかというのが今日の問いです。

 

信仰告白には「聖書は神の霊感を受けて書かれた」とあります。霊感の霊とは神様の見えない力のことです。聖書はその霊の力を受けて書かれたのです。しかし御筆先とは違います。神様から心にインスピレーションを受けた人間が、喜びや悲しみ、葛藤の中で書いたのが聖書です。それが人間が霊感を受けて書かれたという意味でしょう。

 

だから聖書には人間らしさが残っています。だからこそ私たちは聖書に共感できるのかもしれません。

 

聖書の人間らしさとは、例えば聖書には、ある人がそれを書き写す際に、分かりづらいと思った聖書の箇所に、注釈を付け足すということがありました。これこれはこういう意味であると。

 

それは写した人の考えや、時代の考えが反映された付け足しでした。そして、そういう付け足しはいつの間にか、聖書の一部となり、また書き写されてゆきました。このように聖書は神様と人間の共同作業によって生まれた書物だと言えるかもしれません。

 

なぜこんな話をするのかと言うと、それは聖書を軽く見るためではありません。むしろ、どのように大切に読むかを考えたいからです。

 

一方、私たちとは別の理解をするキリスト教のグループもあります。逐語霊感説という言葉を聞いたことがあるでしょうか?逐語霊感説によると、聖書は一言一句、神様からの指示を受けて書かれたものだと理解します。多くの場合、信仰告白に「聖書は誤りなき神のみ言葉である」という表記がされます。聖書は神が一言一句、与えたものだから、限界や誤りはないという信仰を持っています。

 

私たちは聖書を、霊感を受けた“神様と人間の共同作業で書かれたもの”であると理解し、別のグループは“まったく誤りの無いもの”と理解しています。

 

この違いは小さく見えて、大きな違いを生みます。私たちは聖書をどのように規範とするか?という違いが生まれるのです。そしてそれは、わたしたちの生き方を問いかけています。みなさんは聖書はどちらだと思うでしょうか?“神様と人間の共同作業”または“まったく誤りの無いもの”。では実際に、聖書をどう読み、どう生きるかが問われている例を見てみましょう。

 

今日はⅠコリント14章34~36節までをお読みいただきました。ここには教会で女性は黙っていなさいと書いてあります。この聖書箇所はイエスのずっと後の時代の弟子が、聖書に書き加えた言葉ではないかとも言われている箇所です。

 

なぜそういわれるのでしょうか?イエスのそばには多くの女性がいました。十字架の下にも女性たちがいました。復活を最初に知らされたのも女性たちでした。聖書にはイエスに従った、たくさんの女性が登場します。だからもちろん、教会は女性が中心でした。

 

そんな聖書の中に「女性は教会で黙っていなさい」という言葉が出てきます。みなさんはどう感じるでしょうか。

 

そしてこの箇所は女性が中心だった、女性の声が大きかった時代から、男性中心に移行する時代背景の中で書き加えられた箇所でした。時代を経るごとにイエスには無かった考え方が生まれてきました。教会の中心は男性に移行してゆきました。その時代の考えが聖書に加えられたとも言われています。

 

だからこそこの「教会で女性は黙っていなさい」という箇所は現代にそのまま適用することは慎重になるべき箇所でしょう。でも信仰告白には聖書は私たちの信仰生活の規範だと書いてあります。この聖書箇所を私たちの教会はどのように規範にしているでしょうか?

 

司会をする人、奏楽をする人、役員を担う人、その多くが女性です。すると私は立ち止まって考えてしまいます。聖書は規範だと言うけれど、規範とは何だろうか?聖書とは何だろうか?と。

 

先ほどご紹介した、逐語霊感説の立場に立つ教会は、この箇所を根拠として、女性が牧師になったり、宣教したりすることを禁止しています。

 

でも私たちの教会はそうではありません。たとえ聖書に女性は黙っていなさいと書いてあったとしても、私たちはそれを規範としないと決断します。なぜなら私たちは、イエスが示した神の愛が、女性を沈黙させるものではないと信じているからです。私たちは聖書をいつもそのように、慎重に向かい合う存在としているのです。

 

ある人は聖書は人生の教科書なのだと言います。そういう意味で規範なのでしょうか?ただ私にとって聖書は正しい答えが書いてあって、それ通りに生きる、聖書はそのようなマニュアルではありません。なぜ私がそう思うかというと、これだけ多様な人々に、ひとつの正解があると思えないからです。キリスト教を学んで答えが出たかというと、そうでもありませんでした。次の問いがまた出てくるのです。

 

私にとって聖書は人生の問題集のような存在だと感じています。聖書にはたくさんの問いがあります。なぜ苦しいのか?なぜうまくいかないのか?答えのでない、人間の悩みがそのまま記されている箇所がたくさんあります。

 

学校の問題集には答えがあります。でも人生の問題には、答えがありません。そして答えはひとつではなく、いくつもある、一人一人違う場合もあります。このように聖書は一人一人がどう生きるかを問いかけています。

 

もし聖書にこう書いてあるからこうすべきだと生きることができるなら、はっきりしていてわかりやすい生き方となるでしょう。女はだめだと。

 

でもそうしません。聖書はそういうものではないと信じているからです。私は聖書の問いの中に留まりたいのです。そしてみなさんと一緒に考えたいのです。神様は私たちに考えることを委ねているのかもしれません。

 

一体何が私たちの規範なのでしょうか?私は長い間、この問いを考えてきました。聖書なのか、教会なのか、牧師なのか?

 

何が私たちの規範なのか。私は信仰告白にその大切な手がかりがあると思います。それは、聖書は“すべての人間の救いを啓示する”ものだという言葉です。私はこの「すべての人間の救いを啓示する」という言葉から聖書を読み解きたいと思っています。

 

私たちの信仰告白によれば、規範とするだけではなく、すべての人の救いの啓示と理解するのです。イエスが示したすべての人々への愛から照らし合わせて考えるのです。

 

たとえ女性が牧師になれないと聖書にはっきり書いてあったとしても、私たちは全ての人の救いの視点から考えます。そして女性やあらゆる性の人が牧師になることを積極的に考えるべきだと思います。イエス・キリストの教えた“すべての人の救い”に照らし合わせて聖書を受け取ってゆきたいのです。

 

聖書によって、誰かが排除される、女性だから、障害があるから、外国人だから、性のあり方が違うから、貧しいから、学歴がないからと下に見られたりすることがあるなら、それはすべての人の救いではなくなってしまいます。私にとって、すべての人の救いとは、誰も神様から見捨てられないということです。誰かが聖書によって教会から締め出されるなら、私は立ち止まって考えたいのです。神様の愛の外に置かれる人は、一人もいないということです。

 

もちろん聖書をそのように、人間を通して語られたものとして読むことに課題があるでしょう。自分の好きな個所を都合よく解釈をするという問題も生まれてくるでしょう。

 

では、みなさんはどうやって聖書を理解するでしょうか?私が受けている問いは、聖書はどのような意味で唯一の規範なのかどうかという問いです? 

 

みなさんにとって聖書の言葉はどのような意味を持っているでしょうか?聖書は答えを与える本でしょうか。それとも問いを与える本でしょうか。私にとって聖書は私たちに答えを押し付ける本ではありません。

 

聖書を開くたびに、神は私にこう問いかけます。「あなたはどう生きるのか?」そして神様は、その問いの中を共に歩いてくださるのではないでしょうか。