元旦礼拝 「我ら、神の同労者」 コリントの信徒への手紙一3章1~9節 

私たちは新しい年を迎えて、抱負を語り、夢を語り、希望を持ち、計画を立てる。しかし、新しいことを始める時には、それが何であっても、まず第一にそこに神を存在させねばならない。どんな計画でも、神とともに始めなければならない。私たちがあれこれ計画を立てる時に、その計画を神に捧げなければならない。そうすれば、私たちは自分の意志ではなく、神の意志に従っているのだという確信が持てるだろう。そうするならば、私たちにも光が与えられるだろう。

 さて、ドイツの神学者が、牧師は講壇に上がる時には、右手に聖書、左手に新聞を持ってあがりなさい、と言ったという。今だったら、右手に聖書、左手にスマホだろうか。聖書の話は昔の話、遠いどこかの国の話ではなく、その聖書のみ言葉が、今起きている現実の社会とどう関わっているのか、この時代に照らして、聖書が私たちに何を語っているのか、ということを常に考えることが大事であるということだろう。それは常に現実を相対化してみるということでもあるだろう。

 今朝の招きの言葉に、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた」(詩編98:1)とある。神は御自身の愛をみ子イエスに託された。神は、ご自身がどんなに私たちを愛しているのか、ということを伝えるためにみ子を遣わしてくださったのである(ヨハネ3:16)。その主イエスの生涯の第一ページがクリスマスの出来事であり、その後の主イエスの公生涯(とりわけ十字架と復活)の出来事が「福音」であり、「よきおとずれ(グッドニュース)」なのである。
 
 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)とあるように、主は私たちに福音を託し、福音の管理者(スチュワード)として福音の宣教をお命じになった。しかし、この福音のわざは一人の力でできるものではない。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と語られているように、私たちは神の同労者として、今、生きて働いておられる聖霊なる神とともに託されたわざをなしていくのである。
 
 同労者は、目的を一つとしてともに重荷を担う。互いをよく理解し、信頼と尊敬のきずなを強めて。パウロは、「私たちは神の同労者である」(第一コリント3:9口語訳)と言っている。神は私たちをご自身の同労者として召してくださった。神は補助者を必要とするようなお方ではない。しかし、神は恵みと憐れみとをもって私たちを同労者として立ててくださった。私たちは神の同労者として神に仕え、奉仕し、捧げるときに、より深く神の恵みを知ることができる。スチュアードシップを通して神と私たちの関係は強められていくのである。今年も神の同労者として、共に祈りつつ励もう。