「来てみなさい」 ヨハネによる福音書1章35~42節

洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒にいたとき、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と証言する。神の小羊とは、29節「世の罪を取り除く神の小羊」のことであり、34節「神の子」のことである。すると37節「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とある。洗礼者ヨハネの証言が二人をイエスに従わせた。

 洗礼者ヨハネの弟子二人がイエスのもとに駆け付けると、イエスは振り向いて言われる。「何を求めているのか」。二人は戸惑ったのか、何を言っていいのかわからなかったのか、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」ととんちんかんな答え。するとイエスは「来てみなさい(口語訳)」と言われた。すると、弟子の二人はイエスのもとに留まって、イエスが神から遣わされたメシアであることを彼ら自身の目と耳と心で感じ受け取ったのだった。

 そして今度は、弟子のうちの一人、アンデレが兄弟であるシモンに「わたしたちはメシアに出会った」と証言し、シモンをイエスのもとに連れて行く。すると、驚いたことに初対面のイエスはシモンを見つめて、いきなり「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ『岩』と呼ぶことにする」と宣言される。連れてこられたシモンはびっくりしたことだろう。同じようなことは今でも起こっている。連れてこられて、はじめての礼拝で、牧師が「あなたは罪人です」とか「あなたは愛されています」とか説教するのを聞いて、びっくりするやら、反発するやら、戸惑うやら、ぽかんとするやら反応は様々だろうが、いずれにしても、向こうから、主の方から呼びかけがされる。そこへ連れてくる。これが伝道の方法の一つ。

 証言の連鎖はさらに続く。43節以下。イエスはフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われる。そう言われたフィリポが今度はナタナエルに出会って証言する。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と証言する。するとナタナエルは反論。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と。そこで、フィリポは「来て、見なさい」と言った、と書かれている。不毛な論争はしない。来てみなさい。

 イエスの弟子になるということは、「わたしに従いなさい」という招きに応えて、自分の言葉でイエスを証しして、伝道することである。ナタナエルとイエスの対話にフィリポは出てこない。伝道され、イエスのもとに来る人に、イエスが直接出会われる。私たちはこのことを、もっと重要視してよいのではないだろうか。自分の言葉で証しし、イエスのもとへと誘った後は、主ご自身が出会ってくださるのである。弟子は証しし、伝道する。あとは主に委ねよう。