カテゴリ:礼拝メッセージ2015



2016/01/01
今朝の聖書箇所は、イエスの弟子とはどのような人であるかを明示する。それはイエスの言葉を聞いて、その言葉のうちにとどまる人のこと。主はイエスを信じたというユダヤ人に対して、イエスを信じるとは、彼の言葉を聞くだけではなく、その言葉のうちにとどまる必要があると指摘している。そうすれば、その人たちは、イエスの弟子である、という(31節)。...
2015/09/27
古代オリエントの社会においては、相手に傷つけた者に対する処罰としては、「目には目を歯には歯を」という同害報復が常識だった。これは私たちの目には非常に厳しい掟と映るが、当時においては必要以上の復讐がなされないようにするための知恵でもあった。しかし今日の聖書は、そのような常識と異なる対処の仕方を教える。すなわち、故意ではなく殺人を犯した者が逃れることができるように「逃れの町」を設けよというのである。    復讐が常識であった当時の社会は、裁き合う社会だと言えるだろう。私たちの社会でも、勝手に人を裁き、排除することが多くある。理不尽ないじめや仲間はずれが容認される雰囲気がある。大きな事件ともなれば、過ちを犯した本人以外の家族や関係者までもが冷たい社会的制裁を受けることが常識のようになっている。  そのような当時や現代の社会の常識に欠けていることを、申命記はしっかりと見据えて、「罪のない者の血を流してはならない」と戒めている。逃れの町は、いつ過ちを犯して裁かれる立場におかれるかも分からない「あなた」のためであり、また人を勝手に裁いて追い詰めてしまいがちな「あなた」のためでもあるのである。  実際、私たちは相手の過ちを責め立てて、相手に逃げ場すら与えないことがある。しかし主はそんな私たちの罪を取り上げて私たちを追い込むようなことはなさらない。まったく逆に、私たちの罪を独り子イエス・キリストに背負わせることによって、私たちを受け入れてくださったのである。だから、新約聖書の光に照らせば、十字架の主イエスこそが逃れの町だと言えるのではないか。こうして主は、裁き裁かれる世界の中で、逃れの町を備え、私たちが生きることのできる隙間、場所を作ってくださっているのである。  たとい故意ではなくても、殺人を犯したことは加害者にとっても、被害者の身内にとってもつらいことである。互いに顔を合わせることがあるともっとつらい。それに対して主は、頭ごなしに「赦しなさい」とは言わず、「逃れの町」によって互いに距離を置き、祈りつつ関係が癒される時を待つことができるようにしてくださっている。  逃れの町の存在しない現代社会、その中で私たちは何か問題を起こしたり、弱みを見せたら大変だとひっきりなしに人の視線を気にしているのではないだろうか。しかしその中にあって、私たちの教会こそ逃れの町でありたい。教会のメンバーも新しく来た人も、互いに過去や罪の重荷を抱えている。そこでは私たちは互いに罪をごまかすのでも、裁くのでもなく、そして互いに主の前に同じ罪人として、また同じように愛されている者として、共に十字架の主を仰ぎつつ、共に歩むことが許されていくのではないだろうか。
2015/09/06
生まれつき目の見えない人は主イエスの言葉に素直に従って、治療を受ける。しかし、この男は近所の人々が「その人はどこにいるのか」と質問をすると「知りません」と答えるのである。これが癒してくれた恩人に対する態度だろうか。この男は自分の救いに有頂天になっていて、癒してくれた人の方へは視点がいってない。さらに、主イエスに興味・関心がないばかりか、この男は多分この自分を癒してくれたイエスという人がどんな人であるのか理解できていないようだ。    このことは何を物語っているのだろうか。それは、この男が自分の罪を悔い改めて、イエスを主と信じたから癒されたのではないということ。逆の言い方をすると、この男は癒されたから、主イエスを信じるようになったというのでもない。信じたら癒される。癒されたから信じる。こういう信仰を御利益信仰というが、少なくとも、この男はそのような御利益信仰は持ち合わせていなかったようである。幸いなことに御利益信仰は持ち合わせていなかったけれども、主イエスが何者であるか分からなかった。いや、癒されたことに関心がいって、癒してくれた主イエスのほうに関心がいっていない。自分のことでいっぱい、自己中心。  では、この出来事は私たちに何を教えているのか。それは、主イエスの無償の愛の業、出来事が一方的に起こるということ。私たち、人間の側の努力、善い行い、また反省や悔い改め、徳を積むといったこととはまったく関係なしに、また罪を犯したからとか、とにかくまったく関係なしに、無条件にそのことは起こったということ。  そのことを主イエスは3節で宣言されている。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」これは驚くべき宣言である。弟子たちが前提としたような罪を犯した結果だという考えを否定する。そして新しい教えを示されるのである。ここで言われていることは原因ではなくて目的である。目的へと向かう神の意思である。この意思が表された行為が愛の業であり、赦しであり、共に重荷を負ってくださる神の働きである。このような業のしるしとして癒しがある。そして、そのことは、すでに神の起こされる一方的な出来事の内に私たちは在る、私たちは入れられているということを教えるものである。しかし、残念ながら私たち罪ある人間にはそのことがよく見えない、受け入れがたい、理解しがたいということも言い表しているのではないか。この癒された男と同じように。  私たちはまだ闇の中にいることを知らされる。闇の中にいるから、見えない。いや、見えると思っているが、光の中にいないから見えない。しかし、イエスは「私は世の光である」と言われる。世の光であるイエスの呼びかけに応ずるとき、初めて私たちは見えてくるのではないか。私たちがいまだ闇の中にいて、目が見えない時に、すでにイエスは私たちを呼びだして下さっている。  闇から光の中へ立たして下さるということ、見えない者から見える者へと変えて下さるということが、あの盲人のいやしのわざだったのである。癒しは「神の業が現れるため」だったのである。神の愛が示されるため、救いが知らされるためだったのである。そのことに気付かされた今、私たちはこの主イエスの愛の業に生きるようにとの招きに応えつつ歩むよう求められている。 
2015/08/23
 エジプトやバビロンなど古代世界において、王は常に神々の代理・化身と見なされ、絶対的な権力を持っていた。しかし聖書では、王は決して神的存在ではなく、民の一員であり、民の代表として神に聞き従うべき存在と見なされている。...
2015/08/16
羊と羊飼いのたとえはユダヤの人々にはごく身近なものだった。イエスはこの単純なたとえを用いて、イエスとイエスを信じる者との関係を味わい深く語られた。...
2015/08/09
パンの奇跡に加わった群衆は、その翌日、ティベリアスから来た船に乗り込んで、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。彼らがこれほどまでに熱心にイエスを捜し求めるのは何のためであるか。その訳を知る手がかりは彼らがイエスに尋ねた二つの質問に明らかにされている。...
2015/08/02
「平和を実現する人々」に関する「至福の教え」は、イエスにより「敵を愛する教え」(43-47節)において展開される。この平和の強調は、新約聖書の共通のモティーフとなっている。「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(ローマ14:19)、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」(ヘブライ12:14)など、と勧められている。  武力による平和は、武力によって崩壊する、とも書かれている。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。人類史がそれを立証している。民族主義的・メシア運動は、宗教的熱狂主義者の扇動を生む。それが、政治的指導者と手を結ぶ。暴力的戦争が「聖戦」と唱えられる構造である。現代も同じことが繰り返し生起している。マスメディアはあたかも宗教戦争が勃発したように報道する。為政者が民衆の宗教感情を利用しているだけのことをその類の人々は隠蔽する手助けをしている。  戦後70年、平和が主張され続けてきた。しかし、平和を唱える者が争いの構造を生み出してきた。聖書はイエス・キリストだけが「平和の君」であり、「和解の支点」だと語る。イエス・キリストから離れて平和を唱える者は、自らの民族・国家に都合のいい平和を唱えるだけのことであると。ヒトの中からは闘争、抗争、軋轢、憎悪、嫉妬しか生じない。ヒトの内側に神の働く場を用意する者、すなわち、「成熟した人間」だけが、神の働きにおいて、まことの平和を実現し得るのである、語る。ヒトは平和をつくり出さない。すなわち、生来の人間は、争いと嫉みと悲惨を生み出す。現代の「楽観的ヒューマニズム」の立場の者は、この点を見過ごしている。「成熟した人間」は真の平和をもたらす。「成熟した人間」は神のみを神とし、被造物を、すなわち国家元首や国家権力者や為政者など相対的なものを、決して絶対化しないからである。  「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)。成熟した人は、愛することが出来るといわれる。愛することが出来る人は温かい人間関係をつくることが出来る人でもある。愛する時、愛する側の動機づけで愛し始める。しかし愛は相手あってのこと、愛した結果は、必ずしも願ったように終わらないのが愛には付きもの。愛は自分の手の内から始まっても、愛した結果は自分の手の内から離れる。時には、裏切られたり、素知らぬ顔をされたり、冷たい仕打ちが返ってくることもあるだろう。愛した結果、思いがけなく傷つくこともある。それを恐れては愛することはできない。「敵を愛する」、「迫害する者のために祈る」ためには、傷つくことを恐れずに結果を受容する懐の深い態度が必要。それは我慢するとは違う。受け入れる態度である。「愛には恐れがない」(第一ヨハネ4:18)と聖書にある。神は敵であった、この私を愛してくださったことがその前提にあるからである。ここに立つことから始まる。
2015/07/26
申命記法と呼ばれる12-26章は、主を愛する(6:4-5)ということが具体的にどのようなことであるかを述べている。今日の15章では、主を愛する者として、どのように隣人との関係を持つべきかが語られている。...
2015/07/19
この世の常識では、イエスの受難や十字架の出来事をとても輝かしい「栄光」と見ることはない。オリンピックで金メダルを取るとか、ノーベル賞を受賞するとかがこの世の「栄光」である。ところが、ヨハネ福音書は人がうらやむ光り輝く世界だけが栄光ではなく、暗闇を担いつつ、苦しみもがき、しかし、その暗闇の中でこそ輝く光こそ、イエスの栄光だと語っている。  それは受難と十字架の死を通して多くの命が実を結ぶからである。もしその一粒が蒔かれなければ、つまり自己保身、自分可愛さのために、十字架の出来事が行われなければ、全人類の救いは起こらなかった、ということでもある。一粒の麦の死、イエスの十字架の死を通して命が実る。失うことによって多くを得る。そういう命の大逆転。敗北から栄光へ。悲しみから勝利へと大転換する。そういう恵みが上から与えられる。これが「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われている「イエスの栄光」である。  当たり前のことであるが、私たちは一人では生きられない。多くの支え、親兄弟の愛情や友の助けも要る。一人前に育てるには手がかかる。命にはコストがかかる。その最大のコスト「犠牲」こそ、主イエスの十字架ではないだろうか。私たちの自己中心的な生き方、神から離れてしまっている心、それらの罪を背負うために、主イエスは尊いご自身の血を十字架の上に流さねばならなかった。それは決して「廉価な恵み」ではない。尊い犠牲である。主イエスはゲッセマネの園で苦しみと戦い(27節)、だが父なる神への従順と祈りによって(28節)、やがてその御業を成就される。その十字架の死の彼方に神がなそうとする救いの目標が、あの麦の譬えの中に言い表されていた(24節)。  主イエスが十字架に死なれ、そして多くの実を結ぶ。その結ばれた実が教会である。そのキリストの体なる教会につながる私たちもその実の一つとされている。私たちはなお欠けの多いものだが、赦され、癒され、生かされている。そのために主イエスは十字架の上に栄光を表したのである。今朝、こうして礼拝しているのは、この主の栄光があるからである。そしてその中で、私たち自身もまた「一粒の麦」とされたのではないか。主に仕える者とされ、主のために地に落ちて死ぬ一粒の麦とされ、主のために実を結ぶものとされたことを喜びたいと思う。  さて、具体的にその生き方とはどのようなものと考えればいいのだろうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである」。まさにそのとおり。「宝の持ち腐れ」という言葉がある。「金は天下の回り物」と言い方もある。金をいくらタンスに溜め込んでも、ただの紙屑。金は使ってこそ初めて価値を持つ。私たちも与えられた賜物を用いてこそ輝いて生きる。出し惜しみしない。    野菜は食べてもらってこそ生きる。余ったから捨てるなんて、もったいないもあるけど、それでは一生懸命大きくなって実を結んだ野菜に失礼、申し訳ない。野菜は泣いている。おいしく食べてあげてこそ、その野菜はその生涯を全うする。野菜も喜ぶのではないか。道具もそう。金槌は道具として使われてこそ金づち。金槌も喜ぶことだろう。建物もそう。車もそう。なんだって用いてこそ生きる。喜ぶだろう。ただしちゃんと手入れをしてやらなければいけない。かわいがるということ。大事に使うということ。人間の生き方もまさにそう。長い短いではない。主のために十全に生ききる。

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