「イエスは良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章7-18節

羊と羊飼いのたとえはユダヤの人々にはごく身近なものだった。イエスはこの単純なたとえを用いて、イエスとイエスを信じる者との関係を味わい深く語られた。

 イエスはまことに私たちを守る門となってくださった。「わたしは羊の門である」(7節)と宣言された。羊が門を通って安全に出入りし、牧草に導かれ、育てられていくように、私たちはイエスによって、安全で豊かな生活を送ることができるのである。

 私たちは、ともすると一人で大きくなったように思い違いをする。しかし年を取って子どもを育てたり、いろいろな経験をすると、自分のしてきたことがだんだん小さくなって、人からしてもらったことがどんなに大きなものであるかがわかってくる。信仰生活においても、イエスあっての自分であるという信仰が大事ではないかと思う。イエスゆえに信じる者とされており、いまキリストの証し人として立たされている。私たちの生きる根拠が常にイエスご自身にあることが大事である。

 私たちは今日もまた、過ちを犯したり、イエスの恵みに与った者としてふさわしくないようなことを言ったり、したりしている。しかし、なお私たちはその中でイエスの慰め、励ましを与えられている。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(9節)。イエスを通して信仰生活はなされていかなければならない。

 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10節)。イエスが来られた目的、理由がここで示されている。とこしえの命に至る水、あるいは食物という言葉があるが、自分の命の根拠、源を私たちはどこに置くか。いつまでもかれることのないイエス、そこに泉を求めていく時、イエスはその泉となってくださるのである。私たちは乾きやすく、すぐにからになってしまう。しかし、それてよいのである。イエスに泉を求めておれば、そこで潤い満たすものを受けて生きていくことができる。

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)。その豊かさというものは、イエスが命を捨てることにおいて、はじめてなされていくのである。イエスは死ぬことによってはじめて私たちに命を与えてくださる。そこにイエスと私たちのつながりがある。

 パリサイ派の人たちが律法によって冷たく人を裁いていたのに対して、イエスと私たちとの関係は、羊飼いと羊との関係のような温かい交流であるとイエスは教えている。当時のパレスチナの牧羊は小規模なもので、一頭一頭の羊に名前を付ける習慣があった(3,4節)。牧羊にはいつも危険が付きまとっていた。山や谷で群れからはぐれてしまう羊もあった(ルカ15:1-7)。また、オオカミが襲ってくることもしばしばだった。良い羊飼いは自分の命を投げ出して、羊を守った(11節)。

 しかし、雇人の羊飼いはそうではなかった。羊を捨てて逃げ出し、哀れな羊は狼の餌食になってしまった。イエスは、「わたしは羊のために命を捨てる」(15節)と明言されたが、これは言葉だけではなかった。文字通り、「わたしたちのためにいのちを捨ててくださった」(一ヨハネ3:16)のである。
 さらに、イエスは、「この囲いにいない他の羊」のことを言っておられる(16節)。これは誰のことを指しているのだろうか。一つにはこれはイエスをまだ信じていない人々を指すと理解してよいだろう。福音は全世界の人々に向けられたものである。イエスはユダヤを舞台に福音を宣べ伝えられたが、イエスの思いは民族を超え、国を越えて全世界の人々を救いに導く使命感に満ちていたのである。

 そしてイエスは、羊たちは一人の羊飼いのもとで一つの群れとなるとも言っておられる(16節)。これは優れたリーダーや強力な組織というような人間的な力だけでは不可能なこと。ただ一人の良い羊飼いであるイエスに聞き従うことによって実現することなのである。この使命と確信とをもってすべての人に福音が届くように、教会が一つの群れとなるヴィジョンを持って、大きな器であり得るように祈り励みたいものである。

平塚バプテスト教会

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