「用いられてこそ生きる」 ヨハネによる福音書12章20-26節

この世の常識では、イエスの受難や十字架の出来事をとても輝かしい「栄光」と見ることはない。オリンピックで金メダルを取るとか、ノーベル賞を受賞するとかがこの世の「栄光」である。ところが、ヨハネ福音書は人がうらやむ光り輝く世界だけが栄光ではなく、暗闇を担いつつ、苦しみもがき、しかし、その暗闇の中でこそ輝く光こそ、イエスの栄光だと語っている。

 それは受難と十字架の死を通して多くの命が実を結ぶからである。もしその一粒が蒔かれなければ、つまり自己保身、自分可愛さのために、十字架の出来事が行われなければ、全人類の救いは起こらなかった、ということでもある。一粒の麦の死、イエスの十字架の死を通して命が実る。失うことによって多くを得る。そういう命の大逆転。敗北から栄光へ。悲しみから勝利へと大転換する。そういう恵みが上から与えられる。これが「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われている「イエスの栄光」である。

 当たり前のことであるが、私たちは一人では生きられない。多くの支え、親兄弟の愛情や友の助けも要る。一人前に育てるには手がかかる。命にはコストがかかる。その最大のコスト「犠牲」こそ、主イエスの十字架ではないだろうか。私たちの自己中心的な生き方、神から離れてしまっている心、それらの罪を背負うために、主イエスは尊いご自身の血を十字架の上に流さねばならなかった。それは決して「廉価な恵み」ではない。尊い犠牲である。主イエスはゲッセマネの園で苦しみと戦い(27節)、だが父なる神への従順と祈りによって(28節)、やがてその御業を成就される。その十字架の死の彼方に神がなそうとする救いの目標が、あの麦の譬えの中に言い表されていた(24節)。

 主イエスが十字架に死なれ、そして多くの実を結ぶ。その結ばれた実が教会である。そのキリストの体なる教会につながる私たちもその実の一つとされている。私たちはなお欠けの多いものだが、赦され、癒され、生かされている。そのために主イエスは十字架の上に栄光を表したのである。今朝、こうして礼拝しているのは、この主の栄光があるからである。そしてその中で、私たち自身もまた「一粒の麦」とされたのではないか。主に仕える者とされ、主のために地に落ちて死ぬ一粒の麦とされ、主のために実を結ぶものとされたことを喜びたいと思う。

 さて、具体的にその生き方とはどのようなものと考えればいいのだろうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである」。まさにそのとおり。「宝の持ち腐れ」という言葉がある。「金は天下の回り物」と言い方もある。金をいくらタンスに溜め込んでも、ただの紙屑。金は使ってこそ初めて価値を持つ。私たちも与えられた賜物を用いてこそ輝いて生きる。出し惜しみしない。
 
 野菜は食べてもらってこそ生きる。余ったから捨てるなんて、もったいないもあるけど、それでは一生懸命大きくなって実を結んだ野菜に失礼、申し訳ない。野菜は泣いている。おいしく食べてあげてこそ、その野菜はその生涯を全うする。野菜も喜ぶのではないか。道具もそう。金槌は道具として使われてこそ金づち。金槌も喜ぶことだろう。建物もそう。車もそう。なんだって用いてこそ生きる。喜ぶだろう。ただしちゃんと手入れをしてやらなければいけない。かわいがるということ。大事に使うということ。人間の生き方もまさにそう。長い短いではない。主のために十全に生ききる。