「手を開き、心を開く」 申命記15章1-11節

申命記法と呼ばれる12-26章は、主を愛する(6:4-5)ということが具体的にどのようなことであるかを述べている。今日の15章では、主を愛する者として、どのように隣人との関係を持つべきかが語られている。

 7-11節では、貧しい人に惜しみなく必要なものを貸し与えるようにと命じられている。貸すといっても、いやいや貸したり、利子で儲けようとする貸し方もあるが、ここでは7年目の負債免除の年が目前であっても貸すこと、つまり与えるに近い気持ちで心から貸すことが命じられている。

 ここで興味深いのは、手や目、心といった言葉が繰り返し用いられていることである。貧しい同胞に対して、心をかたくなにしてはならず、手を閉ざしてはならない。また「見捨て」てはならない。直訳すると「悪い目で見る」という言葉で、白い目で見るなということ。そうではなく、心から兄弟、姉妹の痛みや必要を見て取って、手を開くべき、と命じている。

 主がこう命じられるのは、まず主ご自身がイスラエルの苦しみをその「目」で見られ(出エジプト3:7)、その力強い「手」をもってエジプトの地から救い出してくださったからである(出エジプト6:1)。主のそのような愛を受けたイスラエルの民だからこそ、手を開くことが出来るはずである。現実には人々は、負債を負う方が悪いのだという意識を持っている。しかしそのような思いに対して、9節は「よこしまな考えを持って(心に邪念を起こして)はならない」と戒めている。貧しく苦しんでいたイスラエルが今あるのはただ主の祝福によるのだから、貧しい者を見捨てることは主の前に「罪」とされる(9節)。

 そもそもなぜ神は、私たちに祝福を与えられるのだろうか?ただ私たちが豊かになるためだろうか。そうだとすれば、貧しい人々は神の祝福からもれた見放された人々ということになる。そうではない。10節後半を見ると、主は「このこと」のために、すなわち貧しい人に心から与えるために祝福を与えてくださっているのである。祝福は、本来、独り占めするものではなく、分かち合うものなのである。

 11節前半が告げるように、私たちの周りを見ても、世界を見ても、いろいろな意味で貧しく、生活に苦しんでいる人が多くいる。私たちも現に貧しい者であるかもしれない。そして11節の続きを読むと、貧しい者が絶えず存在するからこそ手を開きなさい、と言われている。つまり、貧しい者が絶えず存在するのは、私たちが分かち合い助け合うため。いろいろな意味で「貧しい」人々の存在を通して、主は私たちが手を開いて互いに受け止め合うようにと、大切なことを教えてくださっている。

 新約の時代に生きる私たちにとっては、ただただ、あの十字架において、主イエスご自身が私たちに対してなしてくださったことによって、私たちは愛に生きることが出来る。私たちがこの主の愛の事実に根ざすとき、はじめてそれに励まされて、私たちも愛に生きることが出来るのである。私たちはただこの主の憐れみに立つ限りにおいてのみ、愛と赦しということが可能となるのである。