「逃れの町」  申命記19章1-13節

古代オリエントの社会においては、相手に傷つけた者に対する処罰としては、「目には目を歯には歯を」という同害報復が常識だった。これは私たちの目には非常に厳しい掟と映るが、当時においては必要以上の復讐がなされないようにするための知恵でもあった。しかし今日の聖書は、そのような常識と異なる対処の仕方を教える。すなわち、故意ではなく殺人を犯した者が逃れることができるように「逃れの町」を設けよというのである。
 
 復讐が常識であった当時の社会は、裁き合う社会だと言えるだろう。私たちの社会でも、勝手に人を裁き、排除することが多くある。理不尽ないじめや仲間はずれが容認される雰囲気がある。大きな事件ともなれば、過ちを犯した本人以外の家族や関係者までもが冷たい社会的制裁を受けることが常識のようになっている。

 そのような当時や現代の社会の常識に欠けていることを、申命記はしっかりと見据えて、「罪のない者の血を流してはならない」と戒めている。逃れの町は、いつ過ちを犯して裁かれる立場におかれるかも分からない「あなた」のためであり、また人を勝手に裁いて追い詰めてしまいがちな「あなた」のためでもあるのである。

 実際、私たちは相手の過ちを責め立てて、相手に逃げ場すら与えないことがある。しかし主はそんな私たちの罪を取り上げて私たちを追い込むようなことはなさらない。まったく逆に、私たちの罪を独り子イエス・キリストに背負わせることによって、私たちを受け入れてくださったのである。だから、新約聖書の光に照らせば、十字架の主イエスこそが逃れの町だと言えるのではないか。こうして主は、裁き裁かれる世界の中で、逃れの町を備え、私たちが生きることのできる隙間、場所を作ってくださっているのである。

 たとい故意ではなくても、殺人を犯したことは加害者にとっても、被害者の身内にとってもつらいことである。互いに顔を合わせることがあるともっとつらい。それに対して主は、頭ごなしに「赦しなさい」とは言わず、「逃れの町」によって互いに距離を置き、祈りつつ関係が癒される時を待つことができるようにしてくださっている。

 逃れの町の存在しない現代社会、その中で私たちは何か問題を起こしたり、弱みを見せたら大変だとひっきりなしに人の視線を気にしているのではないだろうか。しかしその中にあって、私たちの教会こそ逃れの町でありたい。教会のメンバーも新しく来た人も、互いに過去や罪の重荷を抱えている。そこでは私たちは互いに罪をごまかすのでも、裁くのでもなく、そして互いに主の前に同じ罪人として、また同じように愛されている者として、共に十字架の主を仰ぎつつ、共に歩むことが許されていくのではないだろうか。