共感者の存在のありがたみ

詩人茨木のり子さんの詞華集『おんなのことば』(童話屋)に「みずうみ」という詩がある。子どものなにげない「声」を聴きとる素晴らしい感性がうかがえる詩である。

  <だいたいお母さんてものはさ/しいん/としたところがなくちゃいけないんだ>/名台詞を聴くものかな!/ふりかえると/お下げとお河童と/二つのランドセルがゆれてゆく/落葉の道/お母さんだけとはかぎらない/人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖をもつべきなのだ(以下略)

  パニックやヒステリーを起こしやすい人の多くは、心の深いところでしいんと鼓動している素直な感情の動き(あるがままの感情)をうまく言葉にできずに、あるいはうまく伝えられずに苦しんでいることが多いと言われている。多弁でおしゃべりであっても、その言葉は、しいんとした自分の深い感情に触れることなく、湖上で空回りして、突然、激しい攻撃性をあらわしてくる。

  このような人たちは、自分の心の中にモゾモゾうずいている、辛さ、しんどさ、悲しさ、怒りや憎しみなどと向き合いながら言葉を紡いだり、誰かに伝えたりすることがうまくできなかったりする。そのような時、その悲しみや辛さなどと響き合いながら、その感情を言葉にしてくれる誰かがいれば、「辛かったね」「悔しかったね」などという共感の言葉が、共に悲しんでくれた人のぬくもりと一緒に、心の浮き輪として内面化される、という。

  また、うれしい時は、その喜びと響き合いながら、それを言葉にして喜んでくれる誰かがいれば、「よく頑張ったね」「素敵だね」という励ましの言葉が、共に喜んでくれるその人のぬくもりと一緒に、その人の心の中に心の応援団として内面化される。

  この二つの他者の存在のバランスが大切だと言われている。隣人愛とは、このような共感者となるということだろう。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ書12:15)と聖書にもある。