「聖句断想」より

『愛に根ざして生きる――聖句断想2』(小島誠志著 教文館 2004)から、いくつかの聖句断想を引用させてもらった。「断想」とは、辞書によると「折にふれて浮かんだその時どきの考え(感想)」とある。小島牧師は「あとがき」で、「『断想』としたのは、釈義とか注釈ではなく聖句に喚起された短い随想という意味を込めたから」と言われる。通読とは違った、その時どきに聖句から触発される読み方である。それもまたよしである。

  「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取る」(第二コリント9:6)。多く種まく者が、多くを刈り取る。当たり前の話であります。種まく労苦なしに収穫の喜びはありません。神への献げもののことを言っています。(筆者:献金は祝福の基と言われている)

  「主のしもべたちよ、ほめたたえよ」(詩編113:1)。主のしもべとは、主に仕える者のことであります。主に仕える者が主をほめたたえるのであります。神に仕える者が神をたたえ、仕えない者がつぶやくのであります。(筆者:つぶやく、不平を言う自分を発見したら、この聖句を思い出そう)。

  「からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている」(第一コリント12:14)。悪魔とは分断するもののことであります。AとBとはどちらがすぐれているか、どっちが上か、どっちが下か、そうやって二つのものの間にミゾをつくろうとします。「AもBも違った賜物を持っており、神はその両方を必要としておられる」そう言って悪魔を退散させなければなりません。(筆者:比較ではなく、違いを喜ぶこと)。

  「『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか』……イエスは言われた……。『この人はできる限りのことをした』(マルコ14:4-8)。献身は計算や打算をこえて献げられるものであります・第三者から見れば無駄使いにしか見えません。しかしその無駄使いが一人の人間を生かすのであります。十字架がそうであったように。(筆者:逆説の十字架。無駄が生きる信仰)。