ストレス対処法としての儀式

 12月25日のこの欄でストレス対処法として「気晴らし」の効用について書いたが、今日はその第2弾で私が以前から「儀式」と呼んでいるものだ。最近読んだ『人生の後半戦とメンタルヘルス』(藤掛明 キリスト新聞社 2016)、にも同じことが書いてあって意を強くした。

  儀式というと形式的で心のこもらないものと考えがちだが、確かにそういうものもある。だが儀式は本来人生において大切なものなのだ。私がまとめて「儀式」と呼んでいるものは生活習慣、恒例行事、記念日、通過儀礼などのことである。

  日常の生活も、朝起きてから夜寝るまで、いろいろな日課(私は儀式と呼んでいる)があり、ほどよいメリハリを与え、心を支えてくれる。私の場合、基本的に早寝早起きを守り、起床後はトイレ、洗面、コーヒーを飲む、カーテンを開ける、着替える、散歩、その後新聞、聖書を読み祈りの時間と続く。そのように朝の2時間が流れていく。これらがスムーズにいくと一日の良いスタートが切れるのである。

  一週間もそう。日曜の主日礼拝から始まり、水曜日に祈祷会、それを軸に例えば月・木曜はゴミ出し、金曜日にお気に入りのテレビ番組を見る、土曜日に週報を仕上げるといったように、一週間の自分のペースを考えながら過ごしている。

  同じように、一ヶ月も、一シーズンも、一年も、それぞれに節目があり、恒例行事があり、誕生日などの記念日もある。このような時こそ、ほどよく立ち止まり、今置かれている自分の状況に思いをめぐらし、振り返ったり実行したりする絶好の機会である。忙しい時ほど、この日常の節目を大切に守ることで乗り切れる。今は忙しくて非常事態だからといって、これらをないがしろにして頑張るというのは実は大変危険なこと。多少無理をしても、いつもの自分のペース、節目を意識的に守ることはメンタルヘルスのうえで大切なことだと言われている。

  杓子定規に考えなくてよい。あまり儀式にこだわると息苦しくなる。要は自分を見失うことのないよう儀式を通して心地よい生活リズムを作るということ。