ヒツジの話 その2

 主イエスは「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10-11)と人々に語られた。羊飼いの仕事はかなり苦労が多い。当時、野生動物は現代よりもはるかに数が多く、今では姿が見られないオオカミ、ヒョウ、オオヤマネコ、クマ、ライオン等が絶えずヒツジをねらっていた。さらに、盗賊もいた。一方、パレスチナ地方は乾燥して暑さが厳しく、ヒツジに規則的に水を飲ませることが必要だった。このため羊飼いは水や新しい牧草地を求めて群れを移動させなければならなかった。羊飼いは石投げ器やこん棒などで武装していたが、ヒツジを守るために、時には血を流し、命を落とすこともあったという。

  野生のヒツジが家畜化されたのは8千年前、またはそれ以前といわれている。家畜のヒツジは敵に対する防衛力を持たない。角は野獣に対する武器にはならないし、鋭い爪も牙もない。必然的に羊飼いだけが頼りである。ヒツジは臆病だとも言われるが、忍耐強く、柔和で従順である。

  聖書には九十九匹のヒツジを残して、迷子になった一匹のために時間と労力をさく羊飼いの話がある。こうした愛情に、ヒツジは羊飼いの声を聞き分け、絶対的な信頼をおいてその後に従った。この羊飼いとヒツジの関係は神と人間の関係によくたとえられる。実際に主イエスは人間の救いのために「よい羊飼い」として命を捨てられた。

  主イエスは「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語り、聖書は随所で忍耐と柔和な心を求めるように勧めている。人間は科学におごり、武器で平和を勝ち取れると錯覚してしまった。今こそ「よき羊飼い」の声を聞き分けるために、柔和な心とともにヒツジの臆病さをも学ぶべきだろう。臆病さとは謙虚さに、柔和な心とは憐れみ、慈しみの心に通じるだろう。