共に祈る教会 使徒行伝12章1~5、12~17節

初代教会をゆさぶったものの一つは、迫害であった。ヘロデ王は、キリスト教徒を迫害すれば、自分の人気を回復し、維持していくのに好都合だと考え、ヨハネの兄弟ヤコブを殺し、次いでペテロも捕らえた。ペテロは当時のエルサレム教会の指導的人物である。
 
 教会はこの世の権力に対してなんの抵抗もできない弱い存在であった。普通ならもうだめだとあきらめるところである。しかし、教会はあきらめなかった。「彼のために熱心な祈りが神にささげられた」(5節)。しかし、そのことはただ神に祈り求めていく以外に道はなかったことでもあった。信仰とはあきらめないことである。あきらめるのはすでに罪である。なぜなら、全知全能の神を信じるとは、どんな状態にあってもあきらめないで、望みをもって生きていくことであるからである。初代教会はこの世的にはまったく弱かったが、望み得ないときにもなお、望みつつ信じる強さを持っていた。祈りの強さである。
 
 「早く起きあがりなさい」をはじめ、ペテロに対して御使いは「~なさい」と言われた(7-8節)。神はいつも私たちに「~なさい」と言われる。それは私たちに応答を求める言葉である。「彼はそのとおりにした」(8節)。ペテロは神の言葉に応答した。その時、神の世界にふれた。鎖はとけ、扉は開いた。神の言葉に応答するなら、神の世界に呼吸する者とされる。その時、神はもはや話の世界ではなく、現実となる。それが神との出会いである。神の言葉に聞き従うとき、神の現実が私たちに開かれ、神の愛と支配の世界を知る者となる。このことなしに、どんなに考えても、決して神を知ることはできない。

 言い換えるならば、私たちの信仰の土台を神に置くということである。神の確かさに置くゆえに確信して祈ることができる。自分に置くからふらふらするのである。どこまで行っても信じ切れないのである。
 
 このように祈りの根本的な姿勢は、神に信をおいて祈る。神の確かさに信をおいて祈ることである。自分の確かさや熱心さに信において祈るのではない。そのことを祈りの実践から教えられ、訓練されて成長させていただこう。