カテゴリ:礼拝メッセージ2017



2018/03/25
「裏切る」という言葉はギリシャ語では「引き渡す」という意味で、新共同訳聖書では「裏切る」と「引き渡す」を場面に応じて訳し変えているが、同じ言葉である。だから、裏切りの行為は引き渡しの行為ということになる。その言葉は、すでにイエスの受難予告のところで2回出ている(マルコ9:31、10:33)。...
2018/03/18
ペテロは、イエスから最初に弟子として招きを受け、イエスのことを最初にメシアと告白した人物だった。聖書に描かれている彼の人となりを見ると、何か特に優れたものを持っていたのではないことが分かる。彼は漁師だった。むしろ、弱さが目につく人物である。しかし、このペテロをイエスは愛され、初代教会の基礎を築く一人にした。そもそも軟弱なシモンにイエスがペテロ、つまり、「岩」という名前をつけられたこと自体、私たちの人となりも、イエスが用いられる時、ふさわしい者に変えられることを暗示している。  ペテロは、イエスに22:33で「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。しかし、イエスからは、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」と離反の予告を受けた。そして、この場面でみごとにイエスを裏切ってしまう。ペテロは、ここでも人間の弱さを代表している。大祭司の庭で焚き火に照らし出されたペテロの顔をじっと見つめていた女中が「この人も一緒にいました」と言ったとき、とっさに身の危険を感じた彼は、「私はあの人を知らない」と答えてしまったのだ。おそらく、こうした場面に遭遇した者の多くがこのペテロのようになるだろう。そうだと答えれば、その場で捕まえられるのは目に見えているからだ。  3度目の時、「あなたの言うことがわからない」という言葉も言い終わらないうちに鶏が鳴いた。そのとき「主は振り向いてペテロを見つめられた」とルカ福音書では書かれている。ペテロは、イエスに誓ったその誓いを守ることができなかった。声が届くところにいるイエスを裏切ったのだ。ペテロは、鶏が鳴いたときに始めて我に返った。そして、イエスの振り向いた眼差しを見たのである。彼は、自分が取り返しのつかないことをしてしまったことを悟った。己のことしか考えられなかった弱い自分に対しても深く絶望したことだろう。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた、とある。  しかしながら、ルカ福音書では、こうしたペテロの裏切りに対して、とても優しいイエスの姿を表している。ペテロがいつでも帰ってこられるようにしてあげている。それはペテロの離反を予告した22章32節で「わたしはあなたのために、信仰が無くならないよう祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という御言葉である。すでにイエスはペテロの裏切りを予見され、その事態に至ったときに彼がいつでもイエスのところへ立ち戻れるようにしてあげていたのだ。そういった意味では、イエスが見つめられたときの眼差しには、彼を責める思いなど微塵もなく、ペテロの弱さに対する憐れみだけがあふれていたことだろう。イエスはペテロの弱さを見つめられていたのだ。ペテロの弱さをもまなざしの中にいれておいでになっていたのだ。そこには信仰が無くならないように祈っている主がおられる。  私たちも、何とかして一人を導きたい、この教会を主にふさわしく建てたいとの願いに心は燃える。とはいえ、肉は弱く、欠けだらけで、疲れが残る。また私たちの生活の中でのつまづきや後悔、苦難や悲しみ、孤独感、あせりなど、様々な思いに押しつぶされそうになる。弱さを見せ付けられ、落ち込んでしまうときもある。しかし、主は、そのことをよくご存知であることを、「主は振り向いてペテロを見つめられた」という、主イエスの眼差しに見る。あたかも不信仰ではないかと思う部分も主のものとされている。そしてその部分をも含めて、私たちのため十字架の死を遂げてくださったのである。それをこの主イエスの眼差しに見るのである。  ペテロは立ち直った。そこには主のペテロへの深い祈りがあったことは否めない。そして、その完全な立ち直りを果たすことができたのは、主の復活の出来事であったのだ。使徒言行録において私たちは、復活のキリストによって変えられた弟子たちがいかに迫害を恐れず大胆に宣教していったかを知っている。その姿には、イエスを裏切った弱いペテロを思うことはできない。その代わり、赦されて生きる者の強さを見る。今朝もまた、主イエスは、私たちの弱さをも身に受けて、私たちを見つめられておられるのだ。
2018/03/11
神学校時代のこと、ある教室の掲示板に「思考は地球規模で、実践は足元から」と書かれた紙が張ってあった。「なるほど」と感心した私は、これを「信仰は宇宙大、伝道は隣人から」と置き換えてみた。そして、それは具体的にどういうことか、時々考えるようになった。...
2018/03/04
 私たちは、どのようにも先の見えない苦しみに遭う時、運命と諦めるのだろうか、何かの報いであると恨めしげに我が身を振り返るのだろうか。どのようにしても解決の目途が立たず、絶望だけが駆け巡る時、どうすればよいのだろうか。もしそのような時、代わって苦しみを負う存在があれば、これこそ究極の答えとなるであろう。  ...
2018/02/25
ナオミと一緒に祖国に帰ってきたルツはボアズと結婚し、子どもが生まれる。その男の子を見て、ベツレヘムの女たちはナオミに言う。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう」(14-15節)。高齢者の問題はただ生活の支えの問題だけでなく、「魂を生き返らせる」のでなければならないだろう。ルツ記が示す幸いな結末の背後には、主なる神がおられる。「主をたたえよ」「主はあなたを見捨てない」というのである。すべての背後にあって導いておられるのは「主なる神」であり、その「慈しみ」である。「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」(2:20)がおられ、その「御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださる」(2:12)主がおられる。そのお方が信仰者の人生と家族を歴史の中で導いてくださる。神のこの慈しみは、ボアズやルツを通し、またその出会いや、共同体のあり方を通して示された。神の慈しみが時代の激動の中の家族を支えた。それがルツ記が告げている信仰のメッセージ。  しかしルツ記のメッセージはそれだけではない。生まれた子どもはオベドと言い、その子はダビデの祖父になったと言われる。ベツレヘムの女たちが言った「イスラエルでその子の名が挙げられますように」という祝福の言葉は、その子がダビデの祖父になることによって実現する。ルツ記は確かにナオミとルツの物語である。しかし彼らはダビデの誕生に用いられる。ルツはダビデの曽祖母になる。「魂を生き返らされる」ということは、ただ個人的な人生が満ち足りるという話ではなく、「神の救いの歴史」に用いられることである。もちろんナオミもルツはダビデを見ていない。系譜で言えば四代先、100年先の話。ある人は、ルツ記は100年先を喜ぶ信仰に生きたと言う。このルツ記の系譜をマタイによる福音書は取り入れ、ダビデからさらにイエス・キリストに辿った。そこでは神の救済の歴史は、ダビデで終わらず、イエス・キリストに至る。イエス・キリストは神と一つであり、神であって、世の終わりまで生きて実在し、共にいてくださるインマヌエルの神。神の救済史はイエス・キリストによって、世の終わり、神の国のまったき到来までを視野に収めている。  そうすると、信仰によってあずかる「救い」とは何だろうか。その一つは、神の慈しみに生かされ、その実に与ること。ルツ記が知らせるように、私たちも今その実に与っている。主にある共同体の助けを通して、あるいはそこに生きるボアズのような信仰的に誠実な人を通して、あるいはルツのような「あなたを愛する」(15節)人を通して。「たまたま」(2:3)起きる人との出会いや出来事を通して、背後に働く神の慈しみの実に与る。  ルツ記は同時に、もう一つ、当事者たちがなおその実現を見ていない遥かな将来の実があることをも語っている。それは、大きな神の目的に用いられる信仰、救いの歴史の成就を遥かに望み見る信仰を語っている。ルツの生んだ子はダビデの祖父になったのだ、と。聖書は、一つは「今の救い」を告げる。神の慈しみとその果実は今既に与えられている。しかし同時に聖書は、より大きな神の目的の文脈を語る。それは、あなたは個人として救いに与っているだけでなく、神の大きな救済史のご計画に与り、用いられていると語っている。  今既に恵みに生きる信仰と遥かに望み見る信仰、感謝の信仰と希望の信仰、この二重の信仰は、イエス・キリストに結ばれたキリスト者にこそ当てはまる。バプテスマによってキリストと結ばれた私たちは、すでにキリストと共に死に、その復活の命に与り、神の子とされている。このことを感謝し、喜んでいる。しかし同時に、私たちは神の子とされて「体の贖われること」を待ち望んでいる(ローマ8:23)。それはローマの信徒への手紙によれば、人間以外の被造物も、滅びへの隷属から解放されて、「神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれる」(8:21)ことを望んでいると言われるのである。万物の救いの時を希望しているわけである。「わたしたちは、このような希望によって救われている」(8:24)とも言われる。今既にキリストに結ばれ、キリストと共にいる恵みに感謝し、さらに「体の贖われること」、そして「神の国のまったき到来」と「万物の救済」を望み見ている。そういう感謝の信仰と希望の信仰を与えられていることを覚え、この信仰をこれからも歩んでいきたいと思う。
2018/02/11
 人生には、つらいこと、悲しいことがたくさんある。そして誰でもつらい思いや悲しい目に遭うと、闇の中をさまよっているように感じる。聖書はそれをよく知っている。詩編23篇に「死の陰の谷を行くときも」とあるように、絶望的な状況に立たされる時がある。しかし、詩編の詩人は「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」(23:4)と言う。なぜなら「あなたがわたしと共にいてくださる」からだと告白している。まるで闇と思える時にも、神が共にいてくださることによって、根本的に変えられると言うのである。神との交わりによって生かされるならば、希望を失わず、生きる喜びがわいてくるというのである。  聖書は、イエス・キリストによって神を信じているキリスト者は「光の中を歩んでいる」と語る。「神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)とはっきり言う。ヨハネの手紙一だけでなく、ヨハネによる福音書でも、主イエスは「わたしは世の光である」と言われ、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)と言われた。光の中に生きているというのは、神は光ですから、光の中に生かされていると言うのである。神のご支配の中にいる。神の愛に包まれている。神に愛される存在として生きている、と言っていいだろう。  では、「神との交わり」というのは具体的にどういうことなのか。それは聖書の御言葉を通して神を知り、神と出会い、神を信じ、祈りつつ、礼拝に生きるものとされていくことである。さらに、そのことの具体的な特徴を聖書は7節で二つ述べている。一つは、神との交わりを持ち光の中を歩む人は、「互いに交わりを持つ」。もう一つは「罪から清められる」と言うのである(7節)。  私たちは神との交わりに入れられることによって、新しく交わりを築くことができる。神との交わりを持っているということは、私たちの生活を変える。私たちを照らし、温め、私たちを導き、他者との交わりに誘う。神との交わりを持っていることは、私たちを生かし、導き、希望を与え、愛する力を与え、他者のために仕え、平和を生み出し、主に従う人生を起こす。  もう一つ、光の中に生かされる人生について、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とある。光の中に生かされながら、「自分に罪がない」というのではない。様々な罪を経験するのがキリスト者の人生である。自分は罪を犯したことがないとか、罪はないなどと言うのは、むしろ罪の問題を軽く考えているしるしである。当時のグノーシス主義という異端的な人々がそうだった。信仰によってもう罪のない完全なものになったと主張した人々がいた。しかしそれは「自らを欺いている」(8節)と聖書は言う。どんな敬虔なキリスト者にも罪がある。欠けたところ、失敗や誤りがある。キリスト者は光の中に生かされながら、罪を告白しているのである。光の中に生きることは罪がないことでも、罪を犯したことがないことでもない。光の中に生かされながら、罪ある私たちである。これは決して矛盾ではない。そうではなく、その罪を赦され、そしてあらゆる罪を清められるというのである。  「あらゆる罪」と複数形で記されている。それを神の御子イエスの血、その十字架の犠牲によって清められるのである。「清められる」という言葉は現在に継続している動詞の形で記されている。過去のことだけでなく、今日もその力は働いていて、一つひとつの罪を除いてくださっているということである。山上の説教の中で、主イエスは「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5:8)と言われた。神の御子イエスの十字架に流された血が、今日も働いて、あらゆる罪から清め、神を見る者にしてくださる。「神との交わり」を持っているというのはそういうことである。自分の罪を言い表し、罪の告白をすることは、自分を貶め、自分を傷つけることではない。世の罪に打ち勝ち、私たちの罪を決定的に赦し、さらに一つひとつの罪を取り除いてくださるキリストの血、そこに示された神の真実と力を確信し、信頼して歩むことである。  「神との交わり」に生かされていることは、あやふやなことではない。私たち自身の日常生活の中に力として発揮される確かなことである。私たちを互いの交わりに生かし、健やかにし、罪を赦し、罪を取り除いてくださる。その交わりの光の中に生きる者とされたことを感謝したいと思う。
2018/02/04
ここでパウロの言う「十字架の言葉の愚かさ」とは下降する、下るということである。神が下降するということは人間には不可解な、理解できないことである。神が罪人の下まで下降するのである。...
2018/01/28
 この聖書箇所には、神を信じる者の生きる姿が描かれている。この手紙を書いたパウロは8-9節で次のように言っている。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」  ...
2018/01/21
 この23篇は、何千年もの間、貧しさ、不安、あるいは戸惑い、どうしようもない行き詰まりの中にあった人たちに、大きな力を持って臨み、励ましてきた。それはこの歌が、乏しい中で主に養われ、渇いているときに憩いのみぎわにともなわれた経験を通して「主がそれをなしてくださった」と告白しているからである。そしてそれが私たちの希望であり、信仰の立ち所なのであることを教えてくれる。  羊飼いである主は私に青草を豊かに与え、命の水に導かれる。穏やかで何不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景である。しかしながら、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかの確認の歌でもあることに気付かされる。「主はわたしを……」「あなたがわたしを……」「あなたはわたしに……」というように、この詩人は告白している。生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いであるお方、主であると告白しているのである。  主イエスも言われた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。激しいまでの過酷な労働を伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、私たちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないか。命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばならない。  親が子に対して、どれだけの代償を払い、子どもの気づかないところでいろいろな世話をし、養育してくれたか、子どもは何も知らず、気づかずに過ごしていることがあるが、そのことを思わせられる。ことわざに「親の恩、子知らず」とある。 「神の恵み、人知らず」ではないか。  私たちは教会生活、信仰生活の中で、ともすると無気力さに陥ることがある。礼拝に出ても単に守るべきものとして出ているだけで、そこには何の喜びも力も感じない。また、どんなに聖書のことを知っていても、知っていることからは本当の信仰のメッセージ、力は湧いてこない。  信仰は気づかなければならない。しかし、気づかせてくださるのは聖霊の働きである。気づいて、「ああ、そうだったのか」とあらためて確認し、新しく主と出会う。出会って、そこで、「主はわたしに……」と言って告白し、そして神に望みを置くという、そこに立つことが大事。  そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの間、この詩篇を読むたびに、心の中でアーメン、アーメンと唱えながら、この詩篇を歌い続けたということは、なんとすばらしいことだろうか。  5節にあるように、私たちは「主の食卓」に招かれている。そして主はいつもあふれるばかりの恵みと慈しみを与えてくださっているのである。いや、追いかけてまで、私たちに恵みと慈しみを与えてくださるのだ(6節)。これにまさる喜び、感謝はない。今朝も主は私たちに呼びかけておられる。招いておられる。
2018/01/14
 この手紙を書いたのはパウロだが、彼はここで「わたしは日々死んでいます」と言っている。これはもちろん本当に死んでいるという意味ではなくて、たとえて言っている。つまり、日々死ぬということは、自分を捨てているという意味にとれるし、あるいは自分を何かに委ねている、というふうに読むことができると思う。...

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