「降りてゆく生き方」 コリントの信徒への手紙一 1章18-25節

ここでパウロの言う「十字架の言葉の愚かさ」とは下降する、下るということである。神が下降するということは人間には不可解な、理解できないことである。神が罪人の下まで下降するのである。

 福音書の中に、100匹の羊の中の失われた一匹を捜し求める羊飼いの話がある。いなくなった羊を捜すために、羊飼いは羊が迷って行った同じ道を辿らなければならない。道なき道である。雑草や茨の生い茂っている道である。迷った羊が傷ついたように、捜し求める羊飼いも傷つく。有名な聖画がある。足を滑らせて谷を滑り落ち、灌木に引っかかっている羊がいる。羊飼いは谷に身を傾けてその羊に手を伸ばしている。傷ついた十字架の主イエスを暗示している場面である。十字架まで下って羊飼いは羊を見出すのである。自ら危険に身をさらして危険に瀕している羊を見出すのである。キリストの十字架の右と左に処刑されようとしている強盗。彼らは罪の当然の報いを受けている人間。それ以外の結末はあり得ない人間。その人間の場所に、キリストは降りられるのである。

 十字架の言葉の愚かさ、それは降りていく愚かさである。自ら、あえて選んで降りてゆく愚かさである。それは人の知恵では理解でない。しかも、神がそういう道を選ばれるということを人は納得できない。なぜなら、人の知恵は必ず上に向かうものだからである。人の賢さは高みに向かうことしか知らないからである。高みに向かい、人を見下ろせる地点に立つことしか求めないからである。

 これまで日本人は、「物質的に豊かになれば幸福になる」「多くもつものが幸福である」という、カネやモノをより多く得ることを欲求の対象として生きてきた。これは、「足していく」ことに価値を見出す、「足し算の生き方」といえる。 しかし、物質的な豊かさの追求によって幸福を得るのが難しいのが明らかな現代社会においては、多く持ちすぎることによって、何が大切かわからなくなっている。即ち、何を得るかではなく、「何を手放すか、捨てるか」ということこそが、いまは大事なのではないか。 つまり、いらないもの、無駄なものをどんどんと「引いていき」、本当に大事なものを見すえるという「引き算の生き方」こそが、何が大切か分からなくなっている現代の日本人にとって大事なのではないだろうか。 豊かさを目指して国民一体となって「昇っていく」時代においては、たくさん得ることがしあわせのように思えた。 しかし、いま我々は、経済成長がピークを迎え、下り坂の時代を生きているのだ。昇っていく生き方ではなく、降りていく生き方こそ、いま求められている。

 北海道の浦河に、「べてるの家」と呼ばれる精神障がいをもつ当事者と地域の有志による共同生活と事業の拠点がある。その「べてるの家」の理念の一つに「降りてゆく生き方」がある。この施設のリーダーである向谷地生良(北海道医療大学教授)さんが学生時代に読んだ神学者、思想家のP・ティリッヒが著した『ソーシャルワークの哲学』の「愛するとは、降りてゆく行為である」という趣旨の言葉に由来する。以来、向谷地さんは今日までソーシャルワーカーとして、「降りてゆく実践」をされている。「降りてゆく生き方」はまさにイエス・キリストを指し示す。

 「愛するとは、降りてゆく行為」。降りていく実践をしていこう。