「光の中を生きる」 ヨハネの手紙一 1章5-10節

 人生には、つらいこと、悲しいことがたくさんある。そして誰でもつらい思いや悲しい目に遭うと、闇の中をさまよっているように感じる。聖書はそれをよく知っている。詩編23篇に「死の陰の谷を行くときも」とあるように、絶望的な状況に立たされる時がある。しかし、詩編の詩人は「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」(23:4)と言う。なぜなら「あなたがわたしと共にいてくださる」からだと告白している。まるで闇と思える時にも、神が共にいてくださることによって、根本的に変えられると言うのである。神との交わりによって生かされるならば、希望を失わず、生きる喜びがわいてくるというのである。

 聖書は、イエス・キリストによって神を信じているキリスト者は「光の中を歩んでいる」と語る。「神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)とはっきり言う。ヨハネの手紙一だけでなく、ヨハネによる福音書でも、主イエスは「わたしは世の光である」と言われ、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)と言われた。光の中に生きているというのは、神は光ですから、光の中に生かされていると言うのである。神のご支配の中にいる。神の愛に包まれている。神に愛される存在として生きている、と言っていいだろう。

 では、「神との交わり」というのは具体的にどういうことなのか。それは聖書の御言葉を通して神を知り、神と出会い、神を信じ、祈りつつ、礼拝に生きるものとされていくことである。さらに、そのことの具体的な特徴を聖書は7節で二つ述べている。一つは、神との交わりを持ち光の中を歩む人は、「互いに交わりを持つ」。もう一つは「罪から清められる」と言うのである(7節)。

 私たちは神との交わりに入れられることによって、新しく交わりを築くことができる。神との交わりを持っているということは、私たちの生活を変える。私たちを照らし、温め、私たちを導き、他者との交わりに誘う。神との交わりを持っていることは、私たちを生かし、導き、希望を与え、愛する力を与え、他者のために仕え、平和を生み出し、主に従う人生を起こす。

 もう一つ、光の中に生かされる人生について、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とある。光の中に生かされながら、「自分に罪がない」というのではない。様々な罪を経験するのがキリスト者の人生である。自分は罪を犯したことがないとか、罪はないなどと言うのは、むしろ罪の問題を軽く考えているしるしである。当時のグノーシス主義という異端的な人々がそうだった。信仰によってもう罪のない完全なものになったと主張した人々がいた。しかしそれは「自らを欺いている」(8節)と聖書は言う。どんな敬虔なキリスト者にも罪がある。欠けたところ、失敗や誤りがある。キリスト者は光の中に生かされながら、罪を告白しているのである。光の中に生きることは罪がないことでも、罪を犯したことがないことでもない。光の中に生かされながら、罪ある私たちである。これは決して矛盾ではない。そうではなく、その罪を赦され、そしてあらゆる罪を清められるというのである。

 「あらゆる罪」と複数形で記されている。それを神の御子イエスの血、その十字架の犠牲によって清められるのである。「清められる」という言葉は現在に継続している動詞の形で記されている。過去のことだけでなく、今日もその力は働いていて、一つひとつの罪を除いてくださっているということである。山上の説教の中で、主イエスは「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5:8)と言われた。神の御子イエスの十字架に流された血が、今日も働いて、あらゆる罪から清め、神を見る者にしてくださる。「神との交わり」を持っているというのはそういうことである。自分の罪を言い表し、罪の告白をすることは、自分を貶め、自分を傷つけることではない。世の罪に打ち勝ち、私たちの罪を決定的に赦し、さらに一つひとつの罪を取り除いてくださるキリストの血、そこに示された神の真実と力を確信し、信頼して歩むことである。

 「神との交わり」に生かされていることは、あやふやなことではない。私たち自身の日常生活の中に力として発揮される確かなことである。私たちを互いの交わりに生かし、健やかにし、罪を赦し、罪を取り除いてくださる。その交わりの光の中に生きる者とされたことを感謝したいと思う。

平塚バプテスト教会

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