「日々死に、日々生きる」 コリントの信徒への手紙一15章29-34節

 この手紙を書いたのはパウロだが、彼はここで「わたしは日々死んでいます」と言っている。これはもちろん本当に死んでいるという意味ではなくて、たとえて言っている。つまり、日々死ぬということは、自分を捨てているという意味にとれるし、あるいは自分を何かに委ねている、というふうに読むことができると思う。

 普通、誰でもそうだが、自分の力で一生懸命、道を切り開きながら頑張って生きている。信仰を持つ前にはパウロもそうだった。しかし、今彼はそうではない。日々死んでいると言っている。自力では生きていないという。それは、赤ん坊が、母親の両腕に抱っこされて、ぐっすり眠っている状態に似ていると思う。つまり自分を守ってくれる、支えてくれる存在、母親を信じているから赤ちゃんは安心して眠っているのだ。自分で周囲の危険や敵から守るため目を覚まして身構えているというのではない。よく見れば危険はあるだろう。しかし、そんなことに対して身構えているということではない。むろん力も能力も持ち合わせてはいない。ただ自分を守っていてくれる、自分と一緒にいてくれる者への絶大な信頼において生きている。信仰というものはそういうものではないか。

 この後にこう書いてある。「単に人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」。パウロはエフェソに伝道した時に大変な迫害に遭った。訳のわからない大勢の群衆が、パウロに追い迫るという出来事があった。神殿の銀細工人達がパウロの伝道に大変腹を立てて、このままでは自分たちの仕事が成り立たなくなると言って暴動を起こしたと書いてある。パウロはそのことを「野獣と戦った」とたとえて言っているのだろう。

 私たちの人生には自分である程度処理できることもあると思う。しかし、処理できない力、例えば自然の力だとか、どうしようもない大きな力を持った敵、例えば死など、そういうことや状況が現実にある。パウロが野獣と戦ったみたいに、私たちの力や知恵では処理できない大きな力、大きな闇というものがあって、その大きな闇に取り囲まれて私たちの命があるのではないか。その時に私たちは弱さを感じるし、自分自身の限界を思い知らされる。なんて自分は無力なのだろうと考えさせられる。ちょうど小さな子どもが暗闇の中で急に目が覚めて、不安になり怖くなって、泣き出して、そして叫ぶように、人間の命は圧倒的な闇の中にあるのだ、ということを誰もがどこかで思い知らされる。堂々と自分の力で何もかも突破して生きていく、そんなことはできない。

 「日々死んでいる」とパウロは言う。これは自分を捨てているという意味であり、同時に、自分を何かにまかせているという意味だと思う。それが信仰。信仰は自分が強くなって、力を蓄えて、そして様々な困難を一つひとつ突破していくというようなことではない。むしろ、神に自分をまかせることができることを知るということが信仰だろうと思う。

 イザヤ書30章15節に有名な言葉がある。「お前たちは立ち返って/静かにしているならば救われる。/安らかに信頼していることにこそ力がある」。神に信頼する。それが信仰、信じる者の力である。あるいは信じる者の強さである。自分の力で立っている、あるいは立っていると思っている人は、どこかでポキリと折れてしまう。なぜなら耐えられない風が吹いてくるからである。誰にでも、自分では耐えられない風が吹いてくる。委ねている人間は、倒れてもそこで支えられてまた起き上がる。したたかといえばしたたか、しぶといと言えばしぶとい強さである。

 パウロが「日々死んでいる」というのは、そういう意味である。そしてここでは、十字架に死んで復活されたキリストに自分をまかせているという意味である。十字架にかかり、この私の罪を贖い、罪を赦してくださったその救い主が、復活して一緒にいて下さる。その方に自分をまかせる。信頼して生きていく。

 詩編23編4節にこうある。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。/あなたがわたしと共にいてくださる。」 詩人はここで、災いを恐れない、と言っている。なぜなら、あなたが私と共におられるから。私の心が揺るがないから恐れないというのではない。そんなことはあり得ない。あなたがわたしと共におられるから恐れない。この場合の「あなた」とは神を指しており、同時にキリストを指している。私の罪を背負って下さった方が、私の罪を贖って下さった方が、死の陰の谷を一緒に歩いてくださるから、私は災いを恐れないというのである。私の死にはもはや災いはない。死の災いは取り除かれた。みんなそうです。つまり罪の問題を清算していただいている。そしてこの死の陰の谷は、その向こうに命につながる道になった。
 
 「日々死んでいる」という言葉は、別の言葉でいえば、そういうふうにして日々生きているということ。神に委ねて、私は日々死に、そして日々生きているのである。その信仰の道を歩んでいきたい。