「希望のある忍耐」ヘブライ人への手紙6章9~20節

キリスト教では忍耐することを重視するが、それはただ辛抱する、我慢することではない。辛抱しながら待つ積極的姿勢を言う。忍耐の反対語は何だろうか。焦る、いらだつ、急く、といったところか。だから「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」(哀歌3:26)という信仰が大切になる。

 哀歌に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」(3:22)とあるが、本当にそうである。神の憐れみが尽きないからこそ、私たちの信仰生活がかろうじて保っていけるのである。私たちが持ち続けているのではない。神が少しも働きかけて下さらなかったら、私たちはとうの昔に、信仰を失ってしまっているであろう。

 それには、神ご自身が私たちのために忍耐しておられることを忘れてはならないだろう。ペテロⅡ3:9に主は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」とある通りである。

 福音宣教の働きを進めていく場合も、現実や目の前にいる人たちだけを見ていたら、ほとんど絶望する。現実はこうだからとか、あの人はああだからとかと言っているうちは希望は見えてこない。しかし、ここで石からアブラハムの子どもを起こすことの出来る信仰を持っていかなければ、私たちは自分に対しても、人に対しても、望みを持ち続けることはできないのである。どんなに固くなっていても、石ころのように反応がなくても、神は必ずこの人に御手を伸ばし再び生かしてくださる時があるのだということを信じて、私たちははじめて困難な中にあって福音宣教の働きが出来るのである。神に信頼し、神に期待し、神にゆだねて待つ信仰。15節「こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです」とある、アブラハムの信仰。

 忍耐というのはただ我慢するということではなく、必ず来るものを待つということである。福音を待つ。福音とは良きおとずれであって、神の国の到来を知らせるものである。救いが来たという知らせである。それの知らせを待つことである。その事実と知らせとの間が、忍耐である。だから忍耐とは希望と結びついているもので、希望のない忍耐は聖書で言うところの忍耐ではないわけである。同じへブル書に「神のみ心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」(10:36)とある。また、ローマ書5章3節以下に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とある。

 希望がないとどうなるのだろうか。ルターは次のように言っている。「苦難は焦燥を生み出し、焦燥は強情を生み出し、強情は絶望を生む」。希望のないところでは苦難は絶望だし、忍耐できるものではない。希望の信仰があるからこそである。

 アブラハムがイサクを連れて、モリヤの山に登っていくとき、若者たちを山すそに置き、二人で行くのである。その時彼は若者たちに「あなたたちは、ここで待っていてくれ。私たちは、いまから山へ行き礼拝して帰って来ます」と言うのである。「帰って来ます」の主語が複数なのである。イサクを神にささげたら、帰りは一人である。それを「私たちは」とアブラハムが言えたのは、イサクも帰って来られることを信じきっていたからではないだろうか。だから一人子を捧げることができた。けれどもそれは芝居ではなかった。どんなにして神が返して下さるかは分らなかった。だからこそ、アブラハムはイサクをささげたと言うのである。捧げるけれど、愛の神は殺すようなむごいことはなさらない。最善をして下さると信じていたからこそ、彼は従うことができたのである。

 聖書の忍耐とは希望を持って待ち望むことであり、み言葉に従って待ち望むことである。それが私たちの信仰生活を全うさせる力であり、完成へと進めるものである。今年度の主題聖句「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ12:12)