「手を差し伸べよ」 マルコによる福音書9章33-37節

 9章30~32節において、イエスが何のためにエルサレムに向かおうとしているのかを改めて話されている。しかし、弟子たちはいまだにその意味を理解していない。彼らは、イエスが地上の王国をつくり、自分たちがその支配階級になることを願っていたらしい。イエスが十字架に向かおうとしているときに、誰が一番偉いかと論じていたのだ。そこに弟子たちが考えている権威と栄光を持つ人の子イエスとイエスご自身が語るこれからの受難と復活の出来事との間に大きなずれがある。

 人間にはそれぞれの役割の違いがある。しかし、人間に価値の上で序列をつけることは大きな罪である。イエスはその罪を見逃すことは出来なかった。イエスは弟子たちに「何を論じていたのか」と尋ねた。弟子たちが黙っているので、イエスは「だれでも一番先になろうと思うならば、一番後になり、みんなに仕える者とならねばならない」と教えられた。イエスは、弟子たちの「偉くなりたい、一番先になりたい」という願いを否定せずに、受け止めた上で、その意味をまったく新しく作り変えた。「一番後に」最後の者とは、集団の中で最も軽んじられ、ほとんど疎外された立場である。しかし、そのような立場から「仕える」という積極的な意志を表すものである。

 この当時のユダヤ社会では、幼な子と女性は一人前の社会の成員とはみなされていなかった。特に幼な子は人間としては価値の小さいものとみなされていた。しかし、イエスは、その「幼な子を受け入れる」ことを弟子たちに求められた。幼な子を受け入れるということは、自分にとって得にならないような相手をも神に創られた一人の人間として大切にすることである。さらに、イエスは幼な子と自分とを同一視しておられる。イエスの弟子として生きることは、この世的な栄誉や成功を第一に求めることとはまったく異なるのである。「幼な子に仕えたところで目に見える報いは期待できないし、人々からも注目されないかもしれない。しかし、幼な子を大事にすることは、私を大事にすることなのだ。それが私の弟子としての生き方だ」とイエスは言っておられる。

 私たちの世界の一つの問題は、人間を有用性や功績によって測る価値観があまりにも強く支配していることである。人がそれぞれ持っている能力をふさわしく発揮することは大切なことである。しかし、そうした有用性が人間の価値そのものであるかのごとくみなされてしまうのは誤りである。有用性とは付随的な価値である。その人がその人であるという人格の存在価値は、有用性にかかわりなく尊いことをもっと真剣にとらえることが求められている。なぜなら、神は一人ひとりの存在をまず愛してくださっているからである。何かができ、何かを成し遂げたから愛されるのではない。
 
 イエスは、いと小さき私たちをすでに価値ある尊いものとして受け入れてくださっている。その意味ではすでに偉いものとされているのであるから、偉くなろうとする必要はない。だから、安心して幼な子を受け入れ仕えることが出来る。自分を評価してくれるか否か、得になるか否かにかかわらず、イエスが大切にしておられる、幼な子に代表される「いと小さき者」を私たちも大切にする。そして、その人に仕えても表面的には何の見返りもないかのように思える相手に対しても、その存在の価値を大切に思うがゆえに心をこめて仕えていくことこそが、十字架のイエスに従う生き方である。

 「受け入れる」は元来、手を差し伸べる受容の姿を表す。こちらから手を差し伸べる、という積極的な働きかけである。積極的にこちらから仕えていく姿勢である主に仕え、隣人に仕えるは同じこと。