「信仰・希望・愛」 マルコによる福音書 13章3~13節

今朝の新聞に、お墓の悩みごとが取り上げられていた。遡っていけば次は葬式のこと、どこで最期を迎えるか、延命治療のこと、介護、遺産・遺品のこと、まあ次から次と悩みは尽きない。しかし、それは死から今の自分の生活を見直す絶好の機会。いかに生きるべきか、と。
  
 さて、マルコ13章は小黙示録といわれ、主イエスが終末について語られたことが記されている。私たちにとって信じがたいことと言うか、分からないことがいろいろあるが、その一つは終末信仰ではないだろうか。この世の終わる時があり、そして私たちは神の前に立たねばならないと聖書は宣言している。しかし、それは証明できたり、予想できないものである。そこで私たちは、聖書にそのようなことが書いてあるとか、そういう思想があるとかいうぐらいで軽く扱ってしまいがちである。

 しかし、キリスト信仰の目標は、終末の時キリストの義の冠を受けることにある。具体的に言うと天国に行くときまでしっかり信仰を持って生き抜いていくということだ。信仰の目標が不明瞭になると、この世の道徳、常識とか、現実の動向に左右され、ある時はヒステリックな悲観主義になったり、無責任な楽観主義におちいりやすくなる。そのいずれも、私たちが終末に向かっていることを忘れることからくるのではないか。

 そのことは、個人の人生において考えてみると、私たちは確実に死に向かって生きているということを忘れているということだ。時に死を見つめて生きてゆくことが大切。それは、生きることの意味を考えさせてくれるからである。死を考えることは、私たちの日常を再構築することへと向かうのではないだろうか。

 アメリカのクリスチャンが作ったプログラムだが、それを関西学院大学の藤井美和教授が活用し、講義で学生に対して行っているプログラムを紹介しよう。

 それは、まず、紙を12枚配って、目に見える大切なもの3つ、次に目に見えない大切なもの3つ、さらに大切な活動、仕事など3つ、そして大切な人3人、とそれぞれ4つの分野について3つずつ書いてもらう。今時の学生だと、目に見える大切なものでは、だいたいみんなケータイとかスマホと書くそうだ。

 さて、その上で、自分が末期ガンで死ぬまでの架空の日記を教授が朗読していく。まず、末期ガンだと分かった時に、12枚から3枚を選んで破る。捨てる覚悟をするわけだ。次に手術が終わった時に3枚捨てる。季節が変わって3枚、そしていよいよ死に直面した時に2枚捨てる。そしていよいよ息を引き取るという時に、残った一枚を握りしめた後、深呼吸をして、それを破ってもらう。これをやると、圧倒的に最後に残るのは「母」だという。「父」は割と早い時に破られるそうだ。下手するとケータイよりも先だったりする。学生の話ですが。

 このプログラムは、一人の健康な学生が突然ガンに冒され亡くなっていく過程を日記を辿る形で疑似体験する。それぞれの学生は、日一日と死に近づく自らの姿を思い浮かべながら、予め紙に書いた大切なものを一枚一枚破り手放していく。学生は死に向かい合う悩みや苦しみを感じ取り、自分にとって大切なものとは何かを突き詰める。それは心の宝を見つめ、生き方を問い直すことでもある。

 さて、マルコに戻るが、4節で弟子たちは、終末がいつ来るのか質問した。主イエスはそれに対して、「気をつけなさい」(5節)、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)、「だから、あなたがたは気をつけていなさい」(23節)、「気をつけて、目を覚ましていなさい」(33節)というように、繰り返し「気をつけて」と言われている。私たちはこの世の現実に惑わされて、神ご自身の支配、生ける神から目を離してしまうことがあるが、そうならないように神を見つめていくことが大切だと言っているのである。終末がいつ来るかということよりも、私たちを造り、愛して下さる神を、どんな時にも見上げながら、その上で、今の自分の生き方をしっかり見つめながら歩んでいくことが大切なのだということである。

 私たちはイエス・キリストの十字架のメッセージにのみ耳を傾け、他のことに気を奪われないようになって初めて、この厳しい現実を生きていくことができるのである。困難や苦しみに出会う時、それは確かに苦しいが、そんな時にも、神が私を愛しておられるという聖書のメッセージを聞き続ける時、何にも惑わされることなく歩み抜けることができる。だから私の人生がどんな人生であっても、神から愛されていることを信じるとき、私たちは希望を持って生きていくことができるのである。皆さんにぜひそのような信仰と希望と愛を神からいただいて、喜びの生活へと歩んでいただきたいと願うものである。