「キリストと共に生きる」 ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節

パウロは19節で「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と書いているが、このことが言えたパウロは、かつて律法に徹し、律法に一生懸命生きたのである。しかし彼は、律法によって生きていけばいくほど、絶望するよりほかなかった。神の前に正しくなろうと思えば思うほど、自分が正しくない罪人であることに突き当たってしまった。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。一方では律法を愛し、神を愛しながら、他方では肉を愛しこの世を愛する思いがあり、しかも常にこの世を愛する思いが勝っていく。そういう自分をどうすることもできなかった。パウロは「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)とも書いている。要するに、一番大事な存在である自分が分からない、信じられない。そんなものはないに等しい。律法によって律法に死んだというのはそういうことである。では、誰を何を信じていけばいいのか、誰を信頼し何を信頼して生きていけばいいのか。

 聖書は、イエス・キリストのみ、と明確に言っている。パウロも16節で「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリストを信じました」と言っている。さらに、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義としていただく」とある。共に「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」という言い方をしている。この言い方は明らかに、人からキリストへの信仰という方向性を示している。確かに私たちはイエス・キリストを主と信じる信仰によって義とされる、救われるわけだが、それだけだろうか。それでは何でも真剣に本心から信じれば救われるのだろうか。それではイワシの頭も信心から、ということになってしまう。

 実は、ギリシア語の「信仰」と訳されている「ピスティス」という言葉は、信頼、信頼性という意味を持っている。だから、ある神学者は16節を「人はイエス・キリストの信頼性を通して以外、律法の行いゆえに義とされないと」と訳した。この「信頼性」という言葉は「信頼関係」という言葉があるように、誰かと関係性を構築し維持するための重要な要素である。ここでは、キリストご自身が私たちに示す信頼性が、義認の前提として述べられているというわけである。わかりやすく言うと、「キリストが信頼性を有するから、私は信頼する」といった双方向性を持ったものとして理解することができる。

 キリストの信頼性とは、キリストご自身が自分の命さえも投げ出して私たちのことを思ってくれている、愛して下さっている、そのことである。これ以上の信頼性はないわけで、それゆえ、私はキリストを信頼する、信仰するというわけである。信頼に足るお方であるということ。その要が十字架と復活の出来事なのは言うまでもない。それがあってこそのイエス・キリストへの信頼、信仰なのである。

 さて、その信仰だが、パウロは19-20節で次のように言っている。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。

 この19節―20節について、ルターは興味深い解釈をしている。「パウロは死んでしまったのである。生きているのはキリスト者である。外見において、仕事において、食物において、着る物について不信仰者と何の違いもない。キリスト者もこの世の被造物を用いる。違うのは信仰を持って生きているということである」(「ガラテヤ大講解」)。これは何と素晴らしい解釈かと思う。うっかりするとパウロの言葉は、一種の神秘主義に陥る可能性を持っている。そうなると現実の生の生活感を持たない、特別な信仰者のあり方になってしまう。ルターは、神秘主義になることを慎重に避けている。ルターがパウロの言葉を通して言いたいのは、確かにパウロという人間は罪人としてキリストと共に死んでいるが、しかしキリストを信頼する者として、この現実を生きている。見てくれも、毎日の生活も世間の人とあまり変わりはない、ただキリストへの信頼、信仰を持って生きている。それが世間の人と違うのだということなのである。

 私たちはこの世にあって、この世に関りながら生きている。その意味において何ら他の人々と変わることはない。しかし、この世に対して与えられた神からの恵み、宝である信仰を持っている。それをパウロは「キリストが私の内に生きておられるのです」と言っている。イエス・キリストはインマヌエルのお方、神は我々と共におられるお方。私たちはキリストと共に生きるものとされている。その信仰を大事にしたいと思う。