「同行二人」 マタイによる福音書25章31-46節

神学校時代のこと、ある教室の掲示板に「思考は地球規模で、実践は足元から」と書かれた紙が張ってあった。「なるほど」と感心した私は、これを「信仰は宇宙大、伝道は隣人から」と置き換えてみた。そして、それは具体的にどういうことか、時々考えるようになった。

 さて、今日の聖書箇所は、世の終わりに行われる最後の審判の場面を描いたもので、主イエスの教えの要約であると考えられる。まさに宇宙大の事柄を示している。そして、「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」という教えの実践的な結論を示している。

 私はこの聖書箇所を読むと、いつもお遍路さんのことが思い浮かぶ。それは類似点が多くあるからである。お遍路さんは「同行二人」と書かれた笠をかぶって、お遍路を続ける。自分ともう一人、それは弘法大師を指す。目には見えないが弘法大師と一緒に巡礼をしているということである。聖書は一貫して、神は我々と共におられる方であると記している。私たちの信仰の歩みもまた、主と共に歩む「同行二人」の歩みではないだろうか。

 以前、新聞に「お遍路さん」の記事があった。その内容は「お遍路さんのお接待」についてだ。山下さんという元大手都市銀行の銀行マンの方の話。バブル期には副支店長として、早朝から深夜まで働き、休日はゴルフ接待。そんな生活が毎日続いたそうだ。45歳の時、突然、リース会社への出向を命じられた。出世コースから外れたわけだ。それ以後悶々とする生活が続き、58歳で早期退職をし、生活に区切りをつけるために、四国霊場をお遍路姿で巡ったのだという。お遍路で、山下さんの心をとらえたのは「お接待」だった。見知らぬ人が、歩き疲れた自分にお茶や食事を提供してくれる。企業での「接待」は見返りを期待するもの。だが巡礼の「お接待」は自ら進んで与える無償の行為だった。山下さんは、「人にしてあげる」ではなく、「人にさせていただく」という気持ちが、人との本当の付き合いを生む、ということに気づき、心を動かされたというのである。それで、山下さんは、今はお遍路さんが気軽に休める小屋づくりに取り組む「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋をつくる会」の事務局長をしている。そして、手伝っている四国の短大の「歩き遍路体験実習」では、単に大学の単位が欲しくて参加していたはずの学生たちが、「お接待」を経験して変わっていくのを見るそうだ。皆、なぜ自分にこんなに親切なのかと驚き、「誰かの役に立ちたくなった」と感想文に記していた、と言う。さて、皆さん、「皆、なぜ自分にこんなに親切なのか」。わかりますか。その答えは? 私はこう考えている。それは、「お遍路」が「同行二人」であるということ。自分と弘法大師。「お接待」は目には見えないけれど、共にこの巡礼を歩んでいてくださる弘法大師にしているのだ。その接待を巡礼者が与っているのである。そこに、弘法大師への信仰があるからである。まさに、今日の聖書箇所に書いてあることそのままではないだろうか。

 主イエスは、いつも「最も小さい者」と共におられる方。その「最も小さい者の一人にひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」とあるとおりである。カトリックの司祭である本田哲郎先生はある本の中で、この聖書の箇所について、主イエスは、ここで五つの基本的人権「食」「住」「衣」「健康」「自由」を数え上げ、そのどれかが奪われ、あるいは抑圧されている人を指して、「最も小さい者」と呼んでいる、と書かれている。現代、私たちの間で「最も小さい者」は誰だろうか。

 食料と飲み水を奪われて、「飢えと渇き」に苦しむ八億もの人々。家と祖国を追われ、他国での不安と窮乏の生活を強いられている難民や流民。仕事も家庭の団欒をも失い、持ち歩く紙袋一つが全財産の日雇い労働の人たち、ホームレスの人たち。病気や高齢のため、あるいは精神や神経のストレスから、社会生活への適応が困難となり、その結果、人々との交わりを断たれた孤独な人々。思想や信条のゆえに、文字どおり「牢」につながれている人々。私たちが日ごろ、気づかずに通り過ぎている人々の中に、「最も小さい者」は苦しみと痛みを訴えるすべもなく、ひたすら耐えているのである。

 実に主イエスは、この「最も小さい者」と共にご自身が苦しんでおり、私たちの方からの兄弟姉妹としての関わりを待っている、と言っておられるのである。キリストを信じ、福音に生きるということは、要するにこの一事に向けて生活を改めていくことであり、神を愛し、隣人を愛するということに行き着くだろうと思う。ここで教えられることは神を愛することと隣人を愛することは表裏一体であるということであり、愛の奉仕に励めということになるだろう。そしてそれは、「人にしてあげる」ではなく、「人にさせていただく」という気持ち、言うならば「感謝」から出る行為。神の恵みに感謝し、分かち合う行為となるであろう。