「信仰は苦難を生きる道」 コリントの信徒への手紙二1章3-7節

 3節に「私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」とある。新約聖書においては神は「父」と呼ばれている。父という言葉には厳しさが当然あるが、同時にある親近さをも連想させる呼び方である。主イエスも「アッパ、父よ」と親しみを込めて呼んでおられる。救い主イエスを送ってくださった、その神は私たちを守る方であり、私たちを父親のように包む、そういう神だ。ここにはそのような神と私たちとの関係が記されている。

 「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」と書かれている。神が厳しく裁く神として私たちに関わることは否定できない。しかし根本は、「慈愛に満ちた父」であり、「慰めを豊かに」与えてくださる神である。それが私たちと神との根本的な関りである。神は時に怒り、あるいは罪を裁く、あるいは罪を問う、そういう方でもあるが、それは父の慈愛の中でなされることなのである。ひるがえって人間社会には愛のない者が相手を叱り飛ばすことがある。あるいは、裁いて突き放すということもあるだろう。しかし、愛する者は悲しみながら叱る、あるいは泣きながら打つのである。父なる神が打ち、あるいは裁くということは、そういうことを意味している。つまり、裁く方に痛みがあるのである。打つ方に悲しみがあるのである。そういう痛みや悲しみに打たれることによって、人間は変えられるのだと思う。

 さらに4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と書かれている。あらゆる苦難に際して慰めてくださると言われている。信仰の苦難、神を信じて生きる時に苦難がある。この世の現実の中にも苦難がある。信仰を持ったならば、楽な問題のない人生が始まるということではない。信仰は楽になる道ではない。試練や苦難が取り除かれて、バラ色の道を歩いて行ける、そのような道ではない。苦難や試練はある。苦難や試練はあるけれども、そこで受け取るものがある。主イエスも言われている。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。

 「あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので」と書かれている。信仰の苦難は、逃げることも避けることもできる。しかし、もし私たちが苦難をいつも避けていたならば、信仰のことはわからない。信仰の喜び、恵み、感謝が分からない。苦難の中に踏みとどまる時に、そこで神の慰めをいただく。苦難の中で慰めを受け取る。それが信仰者の力となるのである。信仰者は苦難の中に踏みとどまり、神の慰めを受け取ることで、そこで生かされ、そこで育てられていくのである。

 私たちは苦難の中で、そこに踏みとどまって、神の慰めを受け取るから、ほかの人の苦難に際して慰めを与えることができる、というのである。苦難を前向きに生きている人が苦難の中にいる他の人を慰めることができる。苦難の中で鍛錬されて、強くなって、タフになってほかの人を励ます力が与えられるのではない。苦難の中で、弱いから、行き詰るから、そこで慰めを神から受け取って立っている人が、ほかの人を慰めることができるのである。

 苦難というのは、しばしば私たちの持てる力や実力を圧倒する形で迫ってくる。もうギブアップするしかない、もうおしまいだ。そういう事態は誰の人生にも必ずある。つまり自分を手放すしかない事態である。しかしその時にも、人間に残されている可能性がある。それは、「わたしは既に世に勝っている」と言われる主イエス、死者を生き返らせてくださる神に祈るということ。神はその死から、生きづまったところから命を見出される方、生きる力を与えてくださる方。

 私たちの信仰の道、神を信ずる道は、この死に体から繰り返し生かされる、思いがけない形で道が開かれる、そういう形で生きていく道なのである。そしてその道が、永遠の命につながるのである。私たちが自分の持っている、個人的な力や実力で開いていく道なのではない。そんなのは行き詰ってしまう。ギブアップするしかないような状況から、繰り返し新しい命への道を開いていただきながら生きていく道、それが信仰の道。信仰というのは、苦難のない道ではない。苦難を生きる道なのである。私たちがたとえギブアップしても、必ず神は私たちのために、前方に道を開いてくださるお方。私たちは、その道を歩いていく。それが信仰によって生きるということ。