「祈りはすでに聞かれている」 マタイによる福音書6章5-14節

 人生、自分の願い通りに事が運べば、どんなにか気を楽にしていることができるだろう。けれども現実は意のままに生きることを許してはくれない。そんなことは言われなくてもわかっていると言われるだろうが、大事なのは、そのことから目をそらさないということ。目をそらさずにいると、信仰的転換を体験することができる。では、信仰的転換とはどういうことか。

 私たち信仰者はことあるごとに神に祈るが、別にクリスチャンでなくても人間は誰でも祈ることはする。そして思う。果たして祈りは聞かれるのか。それが私たち人間の思い、考えのありようでないだろうか。それがいけないというのではない。それは私たち人間のもっている自己中心の当然の思いである。でも、先ほども言ったように、現実は意のままに、願いのままにならない。では祈りは無駄か。そうとも言い切れない。そんな揺れ動く思いの中で過ごしているのが私たちの現実ではないだろうか。その現実にも目をそらさないことだ。

 そんな私たちに聖書は次のようなメッセージを告げる。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタイ6:8-9)。これは主イエスが弟子たちに祈りを教える場面で、次に主の祈りが続いている。祈りはすでに聞かれているという意味がここにはある。もしそうであるなら、もはや祈る必要はないではないかと訝しむことがあるかもしれない。しかし、主イエスは聞かれているからこそ祈るのだと言われているのである。

 キリスト者詩人の八木重吉の詩集『貧しき信徒』の中に、主の祈りについて歌ったところがある。「祈りの種は天にまかれ、/さかさまに生えて、地に至りてしげり、/しげり、しげりて、よき実を結び/また種となりて天にかえりゆくなり」。 神は必要なものをすでにご存じであって、祈るときは、すでに祈った結果を手にしているという意味がここには歌われている。

 信仰は祈り。そして祈り続けるということが目をそらさずにいることでもあるが、そのような祈りの信仰は、「私」の生き方を最も良い方向へと転換させる。しかし私たちは注意しておかねばならない。それは信仰を持てば万事OKというような単純な楽観主義ではない。日々の生活の営みの中で、願い事を心にもって祈ることもあるだろう。しかし、願い通りにならず、意に反した結果が待ち受けていることも一度や二度ではない。しかし意に反したことであっても、信仰を通してよく見るなら、結果は、最も良い実が「私」のために結ばれていることに気付くだろう。これが信仰的転換である。

 信仰的転換を実生活の中に経験しようとするなら、わが身に起こったことが意に反する出来事であればあるほど、そこから目をそらさないこと。意に反することは地上の生活では付きもの。しかし、19世紀のドイツの神学者、牧師のブルームハルト曰く「地上のことから目をそらすな、神は地上の神である」という言葉を思い出す。神は地上で働くお方であることを信じるなら、地上で私の意志に反したことが起こっていたとしても、神の意志に反したことは起こっていないのである。

 祈りが聞かれるとは、願い通りに祈りが聞かれることとは違う。真剣に祈っても願った通りにならないこともあるだろう。結果が意図しないことであったり、場合によっては願いと全く逆のことであったかもしれない。けれども最も必要なものをご存知であると信じて祈った結果がそこにある。結果はどうであれ、私にとって最も必要なものが与えられる、それこそ信仰による祈りである。目をそらさずというのは、神から目をそらさずということでもある。そうすることによって神の意志というか思いに気づかされ、知らされて、感謝と希望に生きるものとされていくのである。祈り続けよう。神から目をそらさずに。