「平和への希望と葛藤」ローマの信徒への手紙7章15~25節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも一緒に礼拝できること、神様に感謝します。

 

今月と来月は信仰告白について一緒に考えています。みなさんは「平和」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。安心して眠れる夜でしょうか。争わない家族でしょうか。傷つかなくてよい世界でしょうか。

 

6月23日、私たちは「命は宝(ぬちどぅたから)」の日を迎えました。沖縄と世界の平和に向けた祈りがささげられる日です。

 

私に沖縄と平和のことを教えてくれた牧師がいました。金井創牧師です。彼は辺野古の新基地建設現場近くで不屈と平和丸という2つの船で基地建設反対を訴えていました。私もこの船に乗せてもらいました。美しい海でした。でもその美しさの中に、深い緊張がありました。青い海の上に巨大な基地が作られていたのです。

 

実は私は沖縄に行くまで、沖縄に基地があるのは仕方がないことではないかと思っていました。金井牧師はそんな私を抗議船・不屈に載せてくれました。船は想像以上に小さく、波のたびに身体が揺れました。正直、少し怖かったです。私は船のへりを強く握っていました。そして青い海の上の、広大な基地建設現場を見ました。そして船からおりた後、沖縄の人々が持つ特別強い、平和への願いを聞きました。金井牧師が教えてくれたのは「人間とは平和を願いながら、それを壊してしまう存在だ」ということです。「基地は仕方ない」と思っていた私の考えが、少しずつ揺れ始めました。

 

私は「本当に基地は必要なのだろうか?」と考え始めました。そして平和とは何かを考え続けるようになりました。学習ツアー以来、金井牧師との個人的な関係も続きました。一緒にお酒を飲みながら、沖縄の現実を教わりました。

 

ある日、信じられない知らせが届きました。不屈と平和丸が転覆し、金井牧師と高校生が命を失ったのです。……言葉がありませんでした。そして安全管理が不十分だったこと、遺族への謝罪が遅れたことが、大きな批判を受けました。さらに金井牧師の性暴力のニュースも取り上げられました。私はこのニュースをしっかりと見ることができませんでした。事故と報道を受け入れるまで長い時間がかかりました。

 

私自身も問いかけられている気がしたからです。私は何を見てきたのか。何を信じていたのか、と。でも私はその平和運動の中で失われた命、傷つけられた命に向き合わなければならないと感じています。「平和を願うこと」と「命が失われた現実」の間で立ち尽くしている感覚です。

 

私に託されていることを考えます。私に託されているのは、事故で無くなった高校生とそのご家族の平安と慰めを祈ることです。性暴力の被害者の回復を祈ることです。そして私にもう一つ託されていることがあります。それはやはり基地に頼らなくてよい世界を実現すること、平和への思いを絶やさないことです。

 

私は改めて、人間は多くの過ちを犯す存在だと感じています。新基地建設を愚かなことだと思います。同時に船にのっていた高校生たちにお詫びをしなければならない過ちがありました。性暴力は許されることではありません。

 

私はつくづく、人間とは平和を願いながら、それを壊してしまう存在なのだと感じます。聖書にも、そんな人間の姿が描かれています

 

聖書はローマの信徒への手紙7章15~25節をお読みいただきました。今日の聖書箇所15節には「私は自分の望むことができていない」「それを行っているのは罪である」とあります。

 

ここには、したいと思うことができていない矛盾が描かれています。みなさんも「したいことができない」小さい体験があるでしょうか?仲良くしたいのに言いすぎてしまう。謝りたいのに謝れない。優しくしたいのに怒ってしまう。もしかすると、戦争とは、その延長線上にある大きな悲しみなのかもしれません。

 

人間は誰しも、戦争や軍事的な緊張で成り立つ世界を望んでいないはずです。ただただ平和を求めています。でも世界は軍拡へと進み、平和を望むことができていません。間違っているとわかっているのに、その方向へと突き進んでいます。聖書は、そのような人間のねじれを「罪」と呼ぶのかもしれません。

 

そして完全ではない平和活動もあります。平和を求め、命を守ろうとしていたのに、命を傷つけ、奪ってしまったことがありました。私は今、神様の前に立ち、考えさせられています。人間とは何か、罪とは何かと。

 

私は沖縄のことを通して、人間って何だろうと考えさせられています。仲良くしたいのに傷つける。平和を願うのに壊してしまう。

 

そう考えていた時、私は信仰告白を読みました。そしてあることを不思議に思いました。

「なぜ神様の話の中に、人間の話がこんなに出てくるのだろう?」

 

みなさんはどう思いますか?これは信仰に関わることがらが書かれている文書なのに、なぜ人間理解が書かれているのでしょうか。信仰のことだけが書かれていればいいのではないでしょうか?

 

しかし、きっと信仰を理解するには、人間がどのような存在かを理解することが必要なのでしょう。私たちは人間の現実をしっかりと見つめる必要があるのです。

 

聖書は人間の“明るい面”と“壊れやすさ”の両方を語っています。信仰告白にもあるとおり、人間は神にかたどって創造されました。人間の命は神様に似たものとして作られ、誰にも傷つけられたり、奪われたりしてはいけない、尊いものです。

 

一方、信仰告白に、人間は神様に背いて罪を犯す存在だともあります。神様に創造された尊い存在であるはずの人間に、多くの不完全さがあるということです。

 

人間には尊厳と不完全さの両方があるということは、みなさんも実感していることではないでしょうか? 

 

信仰告白には「自らの力では神の栄光を受けることができなくなった」とありますが、まったくそのとおりです。世界にはひずみがあり、争いがあります。誘惑があり、人間はいつも神の創造の反対の破壊・罪を起こします。人間の力だけでは平和の実現は難しいと感じています。

 

聖書にも18節「善が何であるかを知っていて実行できない」「望まないのに悪を行っている」とあります。「なんで私はまたこうしてしまったんだろう」——パウロも、そんなため息をついているように見えます。望まない悪を行ってしまう、罪を犯してしまう、それが人間なのでしょうか。その矛盾に人間のみじめさを感じます。誰がここから救ってくれるのだろうか?と俯きます。

 

しかし信仰告白によれば人間は愚かな罪を犯す存在だというだけではありません。世界は失望では終わりません。聖書も25節に「神様に感謝します」とあります。それは神様がここから救い出してくださるという希望です。私たちは罪や社会の矛盾の前に立ち尽くし、失望するかもしれません。でも神様は私たちに希望を指し示している、それが私たちの信仰告白です。

 

神様はどのように希望を指し示しているでしょうか?信仰告白には「それにも関わらず、イエス・キリストの神の救いに招かれている」とあります。私たちは欠けを持ち失敗し、争う存在であるかもしれません。世界は矛盾と傷ばかりかもしれません。でもそれにも関わらず、私たちはイエス・キリストの救いに招かれているのです。それが意味しているのはこうです。私たちがどんなに傷つき、この世界に矛盾があふれていても、神様は見捨てないということです。神様は深い痛みの中にいる私たちを救いに招いているということです。

 

この信仰告白と今日の聖書の個所には希望が書かれています。私たちは招かれています。傷つけ合わなくていい世界へ。安心して生きていい世界へ。敵をつくらなくてよい世界へ。

 

神様は私たちが大きな過ちを犯してしまうことをよくご存じです。家族に優しくできなかった夜、謝れなかった日。この世界の矛盾と葛藤をよくご存じです。人間が自分達の力で平和と安全を実現できないことをよくご存じです。

 

でも私たち人間にも希望があります。神様が私たちを、救い・平和へと招いています。殺し合う必要はない、戦争する必要はない、誰の尊厳も失われない世界へと、神様が招いてくださっているのです。

 

神様は人間にそんな希望を準備してくださっているのではないでしょうか?私たちの教会は、罪深い世界の中で、そのような希望を信仰として告白しているのではないでしょうか?

 

今日の個所から問われていることは何でしょうか?この世界のどこに私たちの罪と矛盾があるでしょうか?あなたが今、立ち尽くしている場所はどこでしょうか?

 

神様は私たちの罪深さにも関わらず、どのように私たちと関わろうとしているのでしょうか?矛盾の中に立ち尽くすこともあります。でも、その場所に神様も共に立っておられるのかもしれません。だから私たちは、絶望だけで終わらなくてよいのかもしれません。お祈りします。