カオス(混沌)の寺院

大阪の應典院の住職、秋田光彦さん。朝日新聞7月28日版に紹介されていた。彼はこの寺院で年間100以上の演劇や演奏会を繰り広げ、「いのち」のことを考える。「アートと共存するカオス(混沌)の寺院」と呼び、「宗教は本来、非日常的なもの。常識を疑う機能があります」と言われる。

 僧侶である彼が言っていることは教会にも当てはまる気がした。仏教界でもこのところ、寺を開いて、社会と積極的に関わらねばと「社会参加」が叫ばれているが、應典院はそのような「開かれた寺」の先駆的な存在だという。そのきっかけが、オウム真理教の事件だった。

 彼曰く、オウムは、伝統ある宗教に見向きもしなかった人を引きつけた。葬式や墓をテーマとしてきた既成仏教は、いきなり狂気の匕首(あいくち)を突き付けられ、打ちのめされと。そして、私たちの手からこぼれ落ちる若者の感情を、現代の都市で引き受けていくにはと考えさせられたと告白する。その結果、「人々が協働しながらコミュニティーを作っていく」という方向性がはっきり見えたそうだ。それは寺の本来あるべき姿、人々が行き交い、出会う場。教会もまた、そういう場でありたい。

 彼はまた次のように言う。現代の日本は、生きづらさ、時代との折り合いの悪さ、そうした気分が目に見えない形 で蔓延していて、誰もが内面に抱えている、と。それをすくい取って、光を当て直したものが演劇かもしれないし、アートかもしれないと。「そうした気分をすくい取って、光を当て直す」作業が教会の宣教の働きであろう。

 「すべての人は仏の前では平等です。こぼれ落ちていく人こそ、ここに来られるようにしたい。……何か特定の目的を掲げると、ここにいられなくなる人が出ます」と彼は言っている。私たち教会は「特定の目的」を押し付けてはいないか。以前、新来者と一緒に教会が、聖書から聴き、一緒に学んで行く。このような「構え方」や「向かい合い方」のチェンジが求められていると書いた。そのことをもう一度考えたい。