「自分の事として聞く」ルカによる福音書14章1節―6節

多くの親はどんなに他の子どもがかわいくても、自分の子どもは特別にかわいいという気持ちをもちます。「やっぱりうちの子が一番大切」と思うのです。もちろん、それは他の子どもがどうでもいいということでは、ありません。私自身、子どもが生まれて敏感になったこともあります。それは他の子どもが事件や事故に巻き込まれるニュースをつらくて見ていられなくなってしまいました。もしこれが自分の子どもが巻き込まれたらと思うと、つらくて最後までニュースを見ることができません。
もしある出来事が、自分の子どもに起きた事だったらどうするか?あるは自分の家族のこと、自分のことだったらどうするか?それはイエス様が私たちに投げかけた問いです。イエス様は5節でこのように言います「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」
イエス様が言うのは、自分の子どもの事として考えてごらん、自分の家族のこととして考えてごらん、自分のこととして考えてごらん、イエス様はそう言うのです。あの人の事を自分の事のように感じてごらん。それが今日私たちに教えようとしていることです。
しかしこの食事にいた人たちは、6節「これに対して答えることができなかった」とあります。「助けます」という答え以外は無いはずです。なぜそれが答えられないのでしょうか。もしかして、彼らは癒すということ、自分の事として考えたことがなかったのではないでしょうか?自分とは関係ない遠くで起きている事として、他人に起きた事とみていたのかもしれません。
この食事にいた人たちは実は律法解釈の議論はするけれども、目の前にいる病を患っている人には、まるで他人です。障がいについて治すか、治さないかの議論ばかりで、それに関わろうとしません。自分の事として考えないのです。口ばかりの議論で、他人事で、行動は伴いません。そして当事者の前では無言です。イエス様はその彼らに自分のこととして考えてごらんと言います。自分の事として向き合ってごらんと言っています。
きっとイエス様は自分の事としてとらえる、そのことを「愛」といったのではないでしょうか。私たちの社会もそうありたいのです。私たちの教会もそうありたいのです。事柄を他者のこととしてではなく、自分事として考える、そんな共同体でありたいのです。相手が、どんな状況か、どんな気持ちか、想像する、家族のような思いを持って、愛を持って考え合ってゆくそんな群れでありたいのです。
もちろんみ言葉も同じです。今日このみ言葉は、教会の中の誰かについて語られている事ではなく、あなた自身、自分自身に語られていると受け取る、そんな共同体でありたいのです。み言葉の前にあの人はどう立つかではなく、私がどう立つかを考えてみ言葉を聞きたいのです。