【全文】「こんな時、希望の神」ヨハネ20章1節~18節

 みなさん、おはようございます。そしてイースターおめでとうございます。今日もそれぞれの家から、それぞれの場所から共に礼拝をしましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもたちも見てくれているでしょうか。スマホやテレビの前のみんなも一緒に礼拝しましょう。

 様々な集まりの自粛はとても残念です。イースター礼拝も一緒に礼拝し、たまご拾いをし、愛餐会をすることを本当に楽しみにしていました。今、このように「集まる」ということがどれだけ大事かを痛感します。一緒に同じ体験をすることを大事だったと気づくのです。私たちは毎週一緒に見る、聞く、触れる、味わうを一緒にしてきたのです。それが共に出来ない事の苦しさを痛感しています。

しかし今、自宅にいるということが大切です。互いの命を守るためにできること、隣人愛を示すためにできる事、そのひとつが自宅に留まるということです。とても悲しいこと、難しく、もどかしいことですが。しかし「自宅にいるという愛」「外出自粛の愛」を私たちは示してゆきたいと思うのです。

 今、私は神様が、この教会に皆さんが足を運ぶことを招いているとは感じないのです。神様が集まるように招いていると感じないのです。今、神様はそれぞれの自宅で、礼拝するように招いているのではないかと思うのです。そしてたとえ今はそうだとしても、また必ず神様の招きと、それへの確信が与えられ、集えるはずだと、堅く思っています。

 その時まで待ちましょう。その時まで愛を貫いてゆきましょう。そう、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、「愛」を貫いてゆきたいのです。互いを五感で感じる事は大事です。でも今はそれが出来ません。でも一切の連絡ができないわけではありません。電話やメール、お手紙で互いに励まし合いましょう。普段しない人と、お互いに電話や連絡をとりあってゆきましょう。今こそ、神様の希望に目を向けましょう。

 私たちは落胆し。落胆ばかり、出来ない事ばかりに目が向かってしまいます。海外の緊張、著名人の死、迫りくるウイルス。中でも志村けんさんの死は私を落胆させました。コロナウイルスの遺族は最後までその遺体にも面会できないそうです。火葬され灰になって初めて再会したお兄さんの姿が忘れられません。大きな悲しみです。

 でも苦しみの中でも神様に、なんとか希望に目を向けてゆきたいのです。一日中テレビでは不安と死者の数が語られます。でも私たちはせめてこの礼拝の1時間だけは希望を持ちたい、希望を見たいのです。神様は希望を与えて下さるお方です。今、不安と死から振り返って、希望に目を向けてゆきたいのです。今日の聖書の個所を一緒に読みましょう。

 

 他の福音書ではマリアは香油を塗りに行き、そこでイエスの遺体がないことを知ったとあります。ですがマリアが香油をもってイエスの墓に行くのを想像するのです。しかしヨハネ福音書ではそうではないのです。マリアたちは既に19章40節で、香油をイエスの体に使っていたのです。すでにイエスの遺体には香料が使われています。では今日、マリアはいったい墓に何をするために行ったのでしょうか。マリアが墓に行く動機は何だったのでしょう。いままで私たちが知っていた動機とは違う動機がここに書かれています。

 マリアはなぜ墓に向かったのでしょうか。まだ夜が明けない。暗いうちに彼女は墓に向かって向かいます。待ちきれないかのように、家を出るのです。向かった動機は、イエスの遺体に遭うためでした。遺体に会う、それは死を確認するという意味を持ちます。私たちは受け入れられない死に直面する時、遺体を見て、本当に死んでしまったのだと実感するのです。その遺体が無ければ、本当に死んでしまった、そのことをなかなか受け入れられないものです。

 マリアはイエスの死をもう一度確認しようとしました。やっぱり本当に死んでしまったのか、それをもう一度確認したい、しなければ納得できない、受け入れられない。それだけイエス様を大切な人と思い、悲しみが止まらなかったです。彼女が墓に向かった動機、それはイエス様の遺体に会うことでした。そしてやはりイエス様は死んだともう一度自分自身の目で、あるいは遺体に触れて確認するために向かったのです。

 しかし、向かう墓の石は開けられ、遺体は無くなっていました。遺体が無いことは、その死を、その絶望をもう一度確認しようとした、受け入れようとした彼女を、さらに混乱させます。遺体に遭えない事の悲しさは、今の私たちにも身近なことです。遺体に降れることは、死を受け入れる事につながるのです。だから私は葬儀の流れで納棺式を大事にしたいので す。それは死を受け入れる儀式だからです。

 マリアも悲しみの中で、もう一度イエスの死を確認しなければならなかったのです。その死を受け入れなければならなかったのです。しかし遺体に会うことはできませんでした。彼女はイエスの遺体が「どこに置かれているのか、私にはわからない」と混乱し、他の弟子たちにも知らせたのです。他の弟子たちもイエスの遺体を見つける事は出来ません。イエスの、あの死はどこに行ったのかを探すマリアです。他の弟子たちが帰っても一人、墓の前で泣き続けます。

 しかし同時に私はマリアがイエスの死ばかりに目を奪われている姿も見つけます。イエスが死んだ、そのことばかりに目を向けすぎているのです。イエスの遺体への執着さえ見る事ができます。泣き続けるマリアに天使が現れます。「なぜ泣いているのか」と問いかけます。マリアは「遺体が無い、どこにいったのか」と答えます。やはり遺体に彼女はこだわります。彼女は死を探します。悲しみを探します。無いものを探します。絶望と悲しみと死を見つけようと必死なのです。

 死を受け入れる事は必要なことです。しかし、そればかりを見ていてはいけません。私たちには希望があるはずです。そこに目を向けて歩みだしたいのです。

 

 そんな時、イエス様が現れます。希望の訪れです。しかしマリアは目の前に登場したのに、あれだけ探していたイエスだと分かりません。そう、マリアが探していたのは生きているイエス、復活したイエスではありません。彼女が探していたのは、遺体です。死んだイエスを探していたのです。だからイエス様ご自身にイエス様の「遺体がない、どこにあるのか」と尋ねます。マリアがそれを尋ねるのは3回目です。1回目は弟子に、2回目は天使に、3回目はイエス様に、遺体がない、遺体がない、どこだ、どこだと尋ねまわるのです。そしてイエス様が目の前に現れても、彼女は分かりません。それは遺体を探しているからです。死を探しているから、絶望を探しているから、イエス様に出会っても気づかないのです。

 

 そんな時、イエス様は名前を呼んでくださいます。「マリア」そう名前を呼び掛けて直接に語り掛けて下さるので。イエス様は後ろからそっと声をかけてくださるお方です。マリアはずっと遺体を探していました。死を探してきました。しかし、イエスはそこに見つかりませんでした。イエスはその死と絶望の全く正反対から、180度違う方向から、語り掛けて下さるお方です。それは命と希望と喜びの方角です。私たちが見る、死と絶望とはまたく違う場所からイエスは私たちに語り掛けておられるのです。

 マリアはそれに振り向きました。これまで探していた、確かめようとしていた死と絶望。そのことから向きを変えたのです。振り返ったのです。方向転換をしたのです。今まで探していた、確かめようとしてきた方向から、まったく見ていなかった希望へと、心の向きが変わったのです。方向転換を始めたのです。

 そしてようやくイエス様を見つけたのです。マリアは希望を見つけたでしょうか。もう少しです。彼女がイエスを見つけて喜んだこと、それはやっぱり体があったことです。彼女はイエスを見つけたとたん、その体にすがりつこうとします。なおもまだその体にしがみつくのです。

 イエス様が言います「私にすがりつくのはよしなさい」。本当に求めるのは私の遺体や、私の体ではないということです。「マリア、遺体や体、死や絶望ばかりを探すのはやめなさい。あなたが見るべきものは、天に上るキリストである」そう言うのです。それが復活のキリストです。死がすべての終わりではない、神のもとに上げられ復活されるキリストを見なさいといっているのです。イエス様の語り掛けを聞いた時、マリアはようやくイエスを認識したのです。それはイエス様が死んだことを確かめることが出来たというのではありません。マリアは死と絶望にばかり目を向けるのではなく、希望に目を向けること、死がすべての終わりではない事、イエス・キリストが復活したことを知ったのです。マリアは他の弟子たちに言います「わたしは主を見ました」それはもう遺体を見つけたという意味ではありません。希望と、命と、復活を見たという言葉なのです。

 イエスはマリアに「私の兄弟たちのところに行ってこう告げなさい」と言います。イエス様はマリアに希望と、命と、復活を示しました。そしてマリアに「告げなさい」と命じます。それは伝える者となりなさいということです。イエス様は死がすべての終わりではない事、神様の業は絶望で終わらないこと、必ず希望が、その続きがあったのだという事を告げる者、伝える者になりなさいと促しておられます。自分の希望を伝えなさいとおっしゃっています。マリアはそのとおり、今度は告げる者として、福音を伝えるものとして、証しするものとして弟子たちも元に帰って行ったのです。

 ここまで今日、マリアの物語を追ってきました。マリアとはいまの私たちです。私たちはマリアと同じです。今、さまざま落胆と悲しみの中にあります。死があります。それは嫌でも目に飛び込み、向い合せられ、死と、不安が渦巻いています。しかし、私たちが探しているのは死と絶望ではありません。たとえ今はそうであったとしても、必ず悲しみでは終わらないのです。

 イエス様からの希望、死から復活するほどの希望が私たちにはあります。いま私たちは悲しみと落胆に目を注ぎ探すのではなく、振り返って、そう振り返って、希望を探したいのです。イエス様は今、私たちの名前を後ろから呼びかけ、方向転換させ、招いてくださるお方です。そしてこの死は悲しみでは終わらない事を語り掛けておられるお方です。その先に必ず希望が続いていると語り掛けておられます。私たちもその希望を見てゆきたい。私たちもそれを告げ知らせる、証しする者となるそのように招かれているのです。お祈りします。