【全文】「礼拝は一番大事」ローマ12章1節

 

みなさん、おはようございます。それぞれ自宅での礼拝も3週目です。どのようにおすごしでしょうか。今日も共に礼拝をしましょう。総会資料にも計画が載せられていますが、今週からゆっくりと礼拝とは何かについて、考えてみたいと思います。その中で私たちの礼拝の意味をもう一度見つけられたらと思います。

私たちは今集えずにいます。そして礼拝とは何かとそれぞれが問い直す時を頂いています。今だからこそ、もう一度礼拝することの意味を私たちは理解したい、そう思うのです。そして、礼拝は何かを考える事は今までの礼拝をもう一度、新たに頂くことにつながると思うのです。ですから今年度、今日から「礼拝は○○」という12回シリーズで、4月と6月7月は礼拝を考える「礼拝再考」の時をいただこうと思います。

さっそくですが「礼拝」とは一体何でしょうか。教会が一番大事にしていることは礼拝です。礼拝を辞めてしまった教会というのは存在しません。なぜなら礼拝をやめたとき、教会は教会でなくなってしまうからです。礼拝をやめるのは教会をやめるのと同じ事です。教会の決定的なアイデンティティは礼拝なのです。それだけ教会にとって礼拝は重要な事です。ですから状況が厳しくなっても教会は礼拝をやめません。教会は牧師一人でも続ける、そしてそれぞれの家庭で礼拝を続けるのです。

教会が礼拝を大切にするということは当たり前のことです。でも私は今、それに危機感をもっています。礼拝を大切にする。それが今、当たり前ではなくなってきているからです。

平塚バプテスト教会に限らず、いま教会は、様々な課題を抱えています。集まることができないという以前から、礼拝出席人数は減少していました、若者は特に教会に来なくなりました。そして多くの教会はこの状況を変えるために、いろいろなことにチャレンジしています。アメリカの教会の成長をモデルにしてみたり、様々な社会活動や地域活動をしたりすることで、その突破口を開こうとした教会もあるかもしれません。

しかし私は同時に、そのチャレンジが間違った方向に向いてしまうことにも危機感を持っています。例えば教会が礼拝以外の事柄に一番の力を注ぎ始めることです。新しい活動に一生懸命になって、礼拝に集中できなくなる、礼拝の価値が下げられてしまうことを心配しています。教会が何かを新しいこと、大切にしたいことを表現しようとするとき、何をもってするか、それはまず礼拝の中において、様々な象徴で表されるべきではないでしょうか。

たとえば子供を大切にしようと言っている教会。子どもを歓迎しますとは言うものの、子供が礼拝にとても参加しづらいという教会がたくさんあります。いろいろなプログラムで子供を呼び集めるのもいいですけれど、いざ子供が礼拝に参加しようとすると、参加しづらいのです。じゃあ礼拝は向こうの親子室でお静かにどうぞ。そして大人だけに向けた礼拝が聞こえるのです。どんなにこどものプログラムを充実しても、教会が礼拝の中で子供に対してそのような態度で、子供を大切にしていることになるのでしょうか。

私はこどもを大切にするというのなら、どうやって子供と礼拝をするかをまず悩んでみたいのです。「子供とどう礼拝するか」まずそれを第一の事柄として悩みたい、そう思うんです。今年度から子供メッセージを始めたのも、そのためです。

たとえば伝道を大切にする教会では、新来者を礼拝後にどうやってフォローするか熱心に話し合っています。それもとても大事です。でもやっぱり礼拝の「後」が大事なのでしょうか?礼拝そのものを新来者にやさしいものにしてゆく、安心してもらえるようにする、そのことはされないのでしょうか?

今年度は平塚教会は特別伝道礼拝はお休みすることとしました。今年度は特別な礼拝ではなく、いつもの礼拝に目を向ける時を持とう、そんな思いからです。もう一度毎週の主日礼拝を特別なものとして受け取り直し、考え直してゆきたいのです。

それが教会が礼拝を中心にする、一番大切にするという事ではないでしょうか。どのように礼拝するかを考える、それが教会の一番の事柄ではないでしょうか。礼拝の中で大切にしていることを表現をしてゆく、礼拝が教会の中心であることをもう一度取り戻していく、そんな姿勢が今の多くの教会にもとめられていることではないでしょうか。いろいろな方法やアイディア、活力がある教会の中でこそ、礼拝を大事にしたい。そう思うのです。だからこそ礼拝とは何かを一緒に考えてゆきたいと思っています。礼拝とは何か、今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。

 

パウロは私たちに「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言っています。神の憐れみとは、神の同情や慈悲といった意味です。それは神様の側からの一方的な思い、愛です。神の一方的な憐れみと愛によって、パウロは勧めるのだと言います。それは、パウロの憐れみよって、ではありません、人間の憐みでもありません。神の憐れみによって勧められている、招かれているということです。神の憐みがそれを勧めているというのです

神様の礼拝に招かれるのは、神の憐れみによってです。人間の憐れみや権威によって、礼拝に招かれるのではありません。教会の牧師の人柄や、教会の人間関係によって礼拝に招かれているのではありません。みんなの顔を見るために礼拝するのでもありません。牧師や人間の力で礼拝に招かれるのではないということです。

礼拝とはただ神が一方的に、その憐れみによって、私たちを招いているのです。パウロがここで伝えようとしているのは「人ではなく神が、まずあなたを憐れんで、礼拝に招いておられる」ということです。そのことを私たちも忘れてはいけないと思うのです。

もちろん神様は私たちを自動的に、教会の礼拝に連れてくるわけではありません。朝、手足が動いて、自分の意思に関係なく歩いて、教会の礼拝に連れてこられたということは起こらないのです。教会まで歩いたのは私です。車のハンドルを握って教会まで運転したのは、神様ではなく私です。礼拝に集うということ、それは私たち人間の応答といえるでしょう。招きは神の一方向的なものです。それに私がたまたま応えることができた、応答できた、それが礼拝に集うということです。

応答として礼拝する、礼拝に参加することも大切です。しかし礼拝が大事な点は、ただ神が一方的に招いておられるからということです。応答するかどうか、応答できたかどういかというのは次の問題です。神様はすべての人を繰り返し招いている、礼拝の徴集者が神であるからこそ、礼拝は大切なのです。神が招いているからこそ、教会は礼拝がなによりも大事なのです。そして今、私たちは神様の招きがそれぞれの場所にある、そう信じ、それぞれの場所で礼拝を捧げているのです。

そして聖書にはこう続きます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる 生ける、いけにえとして献げなさい」。ここには自分の体とあります。私たちは「体」を献げることが、神様に求められているのです。

この個所で私は「体」という言葉が強調されていると思います。例えばこの個所で心も体も捧げなさいとか、全身全霊をささげなさいとかいった言葉の選びができたはずです。そしてそれはすべてを捧げる礼拝というイメージによくあっていると思います。しかし、敢えてここで「体を」献げると表現されます。

「体」それはまず当然、肉体という意味をもちます。全身を捧げる、全身で礼拝をするということです。五感で礼拝をするということもいえるかもしれません。もうひとつ大切な意味があると思います。それは私たちの「体」、それは日常の、この社会の只中にある「体」という意味です。私たちの「体」とは、この地上に生き、汗をかいて働き、人とぶつかり、病気になります、不安になります。人間社会の中に生きる、それが私たちの「体」です。疲れて、汚れて、傷ついている、それが「体」です。

体を捧げなさいという時、それは不完全なままで献げる、不完全なものとしてそのまま礼拝をするということでしょう。苦しい人は苦しいまま、痛みのある人も痛いまま、眠い人は眠いまま、泣いていた人は泣いたまま、礼拝に集うということです。それは本当に、ありのままの「体、今の私」として礼拝をするということでしょう。

聖書が「体を捧げなさい」というとき、そのように現実のありのままの姿で礼拝しよう。そう呼び掛けているのではないでしょうか。今家と言う現実の中で礼拝をしようということではないでしょうか。

神様が呼び集めているすべての人々、その現実が、叫びが、そのまま礼拝になってゆく、礼拝はこの社会との関係を切り離して持たれるものではない。それが礼拝です。

だから聖書は、「聖なる体に“なって”献げなさい」「聖なる体“で”礼拝しなさい」とは言いません。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」聖書は今のあなたのその体を、不完全な体のままでおいで。礼拝し、献げようと言います。苦しい現実、痛みそれが治ったら礼拝においで、聖なる者になったら礼拝においで、とは言いません。今の傷ついたまま、そのままでおいで。そう神が招いているのが礼拝です。そのままでおいで、それを献げなさいというのです。

神様は傷ついている、不安な思いでいる私たちが精いっぱい自分を捧げる時、それを聖なる者、喜ばれるものと受け止めて下さるのです。神様からすれば、そのままでいいから献げてみよう。そのままでうれしいよ。そのままで聖なる者とするよ。神様はそう受けとめてくださるというのです。

今日の個所で一番つまづきとなるのはやはり、次の「いけにえ」という言葉でしょう。自分を生け贄にする、自分が犠牲になる。そんなこと嫌だと思いますよね。

しかしここでパウロは「生ける生け贄」と言います。「生ける」ということが強調されている、いけにえです。当然生け贄というのは一人が犠牲になって「死んで」みんなを救うという概念ですが、ここではそうではありません。大事なのは死なない、生かされる、むしろ生き生きとしたまま捧げられるということです。

私たちの生きている人生を捧げる、生きたまま捧げる、だれも犠牲にしないことを捧げるということです。これが生きるいけにえとして、献げるということです。言い換えるならば命を献げるのではなく、人生を献げるということでしょうか。我慢といういけにえを献げるのではなく、生きる喜びをささげようということです。

つまりこうです。ありのままで、傷ついたままで礼拝においで。それで神様は喜んでくださるよ。そして、私たちの命ではなく、人生を神様に献げようという意味です。

「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝です」そう、これこそ私たちのなすべき礼拝ではないでしょうか。礼拝とは神からの招きです。すべての人々が招かれ、そして私たちは今の体のままで、生きて、喜びの応答する、それが礼拝です。

私たちはこの礼拝を中心にしましょう。そのままの姿で、その体で招かれ、そのままで聖とされるこの礼拝を一番大切にしましょう。それ以外は、礼拝に比べて同じほど大切なことは教会にはありません。礼拝こそ大切なのです。これからしばらく礼拝について共に考え、また改めてこの礼拝を大切にするときいただいてゆきましょう。

 

 

お祈りをいたします。