【全文】「礼拝は派遣」マタイ28章16節~20節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできることを感謝です。そして子どもたちも集まってくれました。私たちはこどもを大切にする教会です。今日子どもたちは三密を避けて、北小会議室で一緒に礼拝をすることにしてみました。以前より親子室が狭いという課題がありました。新しい親子室として、とりあえず使ってみますのでよろしくお願いいたします。

ここ以外にもいろいろな場所を候補として挙げました。こひつじ館や教育館が子どもたちの居場所としては最適でしょう。しかし、私たちが子どもたちを大事にするなら、ぜひ一緒に礼拝をしたいと思っています。それによってお互いにとって多少、居づらさが生まれるはずです。でもそれが教会にとって大事な事です。いま礼拝について学んでいるのは、礼拝で大事なのは神様を感じるだけではなく、お互いのことも感じる時も大事だ、そう学んでいます。神様に向かい合いつつ、お互いの存在が感じることができる選択として、上下左右の表現としてこの場所を親子室としてみました。

もちろん試行錯誤の最中です。でもそれは大人の交わりにおいても同じです。こうすればいいという方法があるわけではないのと同じです。保護者の方、みなさんとも相談しながら、どうしてゆくべきかを試し、考えてゆきたいと思っています。どうぞご意見があれば、私まで届けてください。

さて私たちは礼拝をテーマに宣教をしています。12回のうち、今日は10回目です。今日私たちは、宣教・献金の後にある祝祷について考えたいと思います。私たちの教会では次の様に祝祷がされています。「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また小さくされた者と共に、全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」と祝祷がされています。これは第二コリント13:13をベースに、私が考えて使っているものです。他にも聖書の多くの書簡が祝祷で終わっていると言えます。どうぞ探してみてください。

祝祷を私がするといのは当然の事ではありません。教会では古くから按手礼を受けなければ主の晩餐、そして祝祷が出来ないという伝統がありました。今でも、牧師がいない場合は祝祷を省いたり、祝祷を終祷、終わりの祈りと表記を変えることがまだあります。按手礼問題ともかかわっています。祝祷というもの、改めて考えてみると、実はいろいろな疑問が湧いてくる、広がりのある事柄なのです。

祝祷といえば、牧師が手を挙げて祈る。昔風に言うと「願わくは集わしめられた一人びとりとともにとこしなえにあらんことを」と言われていた。あのポーズは一体何の意味があるのでしょうか。私は手を挙げません。手を挙げる理由が分からないのです。もちろん手を挙げる先生がほとんどですが、挙げ方にも色々なスタイルがあるようです。私の分析では片手派、両手派があります。片手派はだいたい同じ。斜め前に手を挙げます。おそらくその起源はローマ帝国時代の宣誓の習慣にあります。両手派もいます。こちらの起源はおそらくルカ24:50にあるのではないかと考えています。イエス様が手を挙げて祝福しているこの手が複数形なのです。イエスが両手を挙げて祝福したことが、この動作の起源かもしれません。

これらの事を調べると私は手を挙げなければならない理由は無いと現時点では思います。むしろ私が心配しているのは、この祝祷が何か誤解を生んでいないかということです。

祝祷は牧師がイエス様に成り代わって、皆さんに恵み・祝福を与えているのではありません。何かありがたいパワーが牧師の手からレーザービームの様に発射されているわけではありません。これを受けるとご利益があるというものではありません。

ではこの祝祷、いったい何がされているのでしょうか。祝祷の中でされていることは大きく分けて二つです。ひとつは祝福の宣言、もうひとつは派遣です。この祝祷は第一に神様の祝福を宣言するものです。祝福の宣言というと難しいですが、つまり神様の愛が私たちに一方的に注がれる。すでに注がれている、そしてこれからも注がれるという宣言です。

恵み・祝福は牧師から皆さんに注がれるものではありません。牧師が皆さんを祝福するわけではありません。私も含めた私たちみんなに、神様から与えられるものです。先ほど祝祷は第二コリント13:13に影響を受けていると言いました。しかしこの個所の言葉そのままで祝祷はできません。思い切って聖書から文言を変えているのです。

このままだと「あなた方」ですが、それを「私たち」に変えています。あなた方に祝福があるようにと私が皆さんに言ったら、まるで私から祝福が出てくるように感じるからです。祝福は牧師からあなたがた皆さんに行くものではなく、神様から私たちにあるものです。この祝福は牧師や誰かから出るものではありません。神様の恵みが私たちに等しく、豊かに注ぐよということが宣言されているのです。対象はすべての人とすべての生き物です。あらゆる生命、大人も子どもも、ペットも。すべての命に神様の恵みが注ぎますという宣言を最後にしているのです。

そしてこの祝祷の一番大きな意味は派遣ということです。これが大事だと思います。神様の恵み、祝福は礼拝の中で繰り返し確認をされますが、派遣はそれまで礼拝の中ではさほど意識されません。

私たちは礼拝が招きではじまると学びました。そして今日学ぶのは、礼拝は派遣で終わるということです。私たちの祝祷では「私たちを呼び集められた神様、いまあなたは私たちを派遣されます」と宣言されています。祝祷とは派遣なのです。礼拝は招きで始まり、派遣で終わるのです。

そしてこの派遣も、もちろん私が、牧師が皆さんを派遣するのではありません。神様が皆さんをそれぞれの場所に派遣をされるのです。

礼拝はこのように招きと派遣の繰り返しです。一度来たら終わりではなく、行ったり来たりする、それが私たちの信仰なのです。それが示しているのは、私たちの礼拝と生活が決して切り離されてた別々の出来事ではなく、その往復であるということです。私たちはその繰り返しによって、自らの生活を見直し、自らの信仰を見直すのです。

 

 さて今日の個所を読みましょう。マタイ福音書の最後、クライマックスの場面です。イエス様は16節集まるように指示されていました。それは神様の招きです。そして人々はひれ伏しました。「ひれ伏した」は礼拝をするという意味です。イエス様に招かれて礼拝をしていたのです。もちろんその集まりは、熱心に信じる者の集まりであると同時に、信じ切ることが出来ない、疑いや不安を持った人々集まりでした。私たちと同じです。招かれ礼拝する、信仰と疑いをあわせ持つ私たちです。

しかしその共同体にはイエス様の方から歩み寄ってくださり、語りかけて下さいます。「すべての民を私の弟子にしなさい」というのです。弟子にしなさい。その対象はすべての人です。ユダヤ人だけでもない、あらゆる人々を、弟子にしなさいというのです。あらゆる場所と人々に向けて、出ていきなさいと言われています。私たちはイエス様に今、様々な場所に派遣されるということです。

イエス様が大事になさったのは、弟子になるということです。先生になりなさいというのではありません。今日教わったことをあなたはみんなに教えて回るのは弟子になった次のことです。まずは、私たちがイエス様の弟子になることが大事です。

私たちが求められているのは、どこに行ってもイエス様の弟子であること、弟子であり続けることです。私たちが他の誰の弟子にもならないことです。家庭や職場には自分の主人と思える人はたくさんいます。でもその中にあっても、私たちが主とするのはイエス様だけです。私たちは他の誰でもない、イエス様の弟子です。たとえどこへ派遣されても、イエス様の弟子であり続けるということがここで言われているのです。ただの派遣ではありません。弟子を派遣しているのです。

弟子とは洗礼を受けた人とイコールではありません。弟子として歩むとはどんなことでしょうか。私たちは祝祷で「私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう」と言っています。これが弟子として歩むことではないでしょうか。弟子になるとは神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕える事です。

派遣された先で、神様が私を大切にしてくださるように、わたしも神様を大切にし、そして隣人を大切にする、それが愛です。神様が人々に仕えるように、神様に仕え、隣人に仕える。それがイエス様の弟子の生き方です。そしての先に、バプテスマがあり、教えることがあるのです。

私たちの礼拝はその終わりに、祝祷をします。それは神様の恵みの宣言です。そしてこの地上へもう一度派遣されることを示すのです。派遣した先で、弟子として生きよ。そのように私たちは、神様から送り出されているのです。そして私たちは1週間を弟子として生きるのです。

今日の礼拝でも祝祷があります。この宣言と、派遣の祝祷をただきましょう。1週間、それぞれに与えられた場所で、イエス様の弟子として生きることが出来るように、励ましを頂いてゆきましょう。

そして聖書によれば、イエス様は派遣されると同時に、いつでもわたしたちと共にいて下さるお方でもあります。イエス様は私たちを派遣されると同時に、一緒に私たちと歩んでくださるお方、インマヌエルのお方なのです。

神様は招き、派遣し、共にいて下さるお方なのです。その恵みを頂きましょう。お祈りをします。