【全文】「70年間の勇気」ヨハネ16章25節~33節

皆さんおはようございます。今日も共に礼拝をできる事、うれしく思います。子ども達も集ってくれています。平塚バプテスト教会は子どもを大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。先週までは礼拝について12回シリーズで宣教をしてきました。その実りに感謝です。予定では、6月子ども何回か創立記念、70周年について考える計画でしたが、コロナで集う事ができない中で、やはり礼拝の大事さを一層覚えるというで、礼拝をテーマとして宣教を続けてゆく事としました。少し時期は遅れますが、今日より改めて私たちの教会が70年を迎えたという事について、3回に分けて考えてゆきたいのです。

70周年という事で、教会の資料保存をしっかりしようと、整理をしています。その中で、古い執事会の記録や証し集なども目を通しています。資料を読むと、70年間で何回もこの教会にはピンチの時があったという事を知りました。冷や汗をかきながら記録を読みました。その度にかしい選択が迫られ、今の教会がある事を知りました。もちろんコロナのこともその歴史の一つに加えられると思います。

この教会が様々に形、あり方を変えてきた事も知りました。それと同時に教会がこれまでの70年間、変わらずに続けてきた事は何だったのかも考えさせられました。何が語られ続けてきたのかという事を考えています。

変わらず語られ続けている事、その一つは平和という事が言えると思います。教会は70年間平和を語り続けていました。初代の長尾先生は戦時中に戦争に反対し、逮捕された96人の牧師の一人でした。二代目の川上先生もシベリア抑留の話を良くされたと聞きます。続く牧師たちも平和について語っています。それぞれの牧師が、この教会の業、宣教の時に、平和を語り続けていました。私もそうでありたいのです。

私たちは6月14日で創立70周年を迎えましたが、同時に今週の7月16日は、75年前、平塚大空襲が起きた日であった事も覚えます。私たちの街に焼夷弾の雨が降った、空爆が行われた、その日から75年でもあります。創立と平和を祈念する時です。

私は敗戦記念日や広島・長崎に原爆が落とされた事と同じ様に、この記憶を大事にしたいと思っています。私たちの住んでいた町が戦場となり、目の前に爆弾が落ちた事を忘れないでいたいのです。

礼拝で平和を宣べ伝える、それは牧師個人の願いを超えるものです。神様が私たちに平和のためのみ言葉を与え続けて下さったのです。70年間神様は、平和を実現するために、み言葉によって、私たちを勇気づけ、私たちに語り続けて下さったのです。神様は、私たちが平和を作り出す者となるために、私たちに語り掛け、勇気を与え続けて下さっていたのです。

教会が立ち続ける事、この教会が平和を語り続けた事、それは何より神様の働きです。もちろん先人たちの大きな働きもありますが、それを超える、それに先立つ神の働きがあった70年間だったのです。

教会は平和を語ってきました。しかし一方、私たち人間の決意、平和への決意とは弱いという事も知らされています。75年前の空襲の夜、どれほど強く平和を願った夜だったでしょうか。敗戦後それは憲法9条という形で、戦争をしない誓いが建てられました。しかし今、その憲法9条を、より戦争に近づくように変えようという人物が総理大臣になっています。日本は再び軍備拡張の道を歩みだし、アメリカ軍から言われるままに兵器を買い、アメリカ軍と一体化し、平和から遠ざかろうとしています。軍事力への誘惑は非常に強い力です。また教会の内側も70年間平和だったとは言い難いものでした。分裂や閉鎖の危機さえもありました。

このような中で、私たちが平和を求め続けてゆくには、神様から励ましが必要です。平和は、私たちが戦後に選ぶ以前に、神様が戦わない、殺し合わない選択へと導いておられました。私たちは神様に平和へと導かれ、神様から励ましをもらい、平和を実現してゆく者として立たされるのです。神様は70年間、そのようにして平和を私たちに語り続け、その実現のために勇気と励ましをくださったのです。

だからこそ本当の平和、それは神様を信頼する時に起こるのだと思います。私たちに平和が起こるのは、命の造り主が神様であると、知った時です。その命が何よりも大事であると知る時、私たちは戦争を止めて争いを止めて、平和を選び取る事ができるのです。

もちろん神様を信じて平和のために働く、その中には様々な苦労があります。平和のために苦難を味わいながら歩む。しかし苦しみがあったとしても、平和は必ず実現します。それが神様の約束だからです。

一人一人に神様が働きかけ、強い平和への願い、行動を与えて下さいます。平和、それは戦争の無い平和だけに限りません。暴力の無い平和、差別の無い平和、格差の無い平和、命に優劣のつかない平和。その平和を神様からの励ましをいただき、私たちは70年間求めました、そしてこれからも求めてゆくのです。

 

さて、本日の聖書に目を向けましょう。今日の個所はイエス様が13章から続く、最後の晩餐の席でずっと教えを語られてきた、最後の部分です。その教えの最後が今日の部分です。イエス様は33節最後の最後にこう言います「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」

イエス様のここまでの長い話、それは平和のためだったというのです。イエス様は平和、シャロームを伝えたお方です。聖書の平和、それは戦争が無い事だけに限りません。差別の無い平和、格差の無い平和、命に優劣のつかない平和。その平和のために神様の元にいなさいという事が13章からずっと書かれているのです。

25節には「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とあります。そのイエス様はもうそれを言葉やたとえによって伝えるのを終えると言います。これからをもっとはっきりした形で知らせるというのです。

はっきりと知らせるとは、十字架によって知らせるという事です。イエス様は十字架の出来事によって、歴史に残る形によって私たちに福音を知らせようとしています。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちに平和を告げ知らせようとしているのです。

ここで弟子たちは30節「今、分かった」「私は信じます」というのです。しかし、この後の弟子たちはどうでしょうか。イエス様が捕らわれようとする時に、どうしたでしょうか。剣を抜いて、立ち向かおうとします。そしてイエス様を見捨てて、散り散りに逃げて行きました。さらにイエス様を三度知らないと言うのです。「わかりました」「信じます」と言ったすぐ後に、簡単に暴力に訴え、簡単に裏切ってしまうのです。

弟子たちのあの「分かりました」という決心はどこに行ったのでしょうか。剣を振り回し、逃げる弟子たちのその姿は、虚しく、平和をすぐに諦めてしまう、弱い者たちの姿です。平和を求めるけれども、苦難に会うと、すぐに挫折する者たちです。私たちの決意とは、私たちの教会もまた、そのような弱さを持ちます。平和への決意、信じると告白する信仰の決意は、それほどまでにもろく、弱いものなのです。

だからこそ私たちには神様の力が必要です。私たちの決意に先立つ恵みと導き、神様からの励ましと勇気が必要です。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちにその力を、平和を実現するための力をお与えになるのです。

十字架とは神様と等しいイエス様が、もっとも平和から遠い、もっとも悲惨な場所に身を置かれ、それを味わったという出来事です。私たちはそれを見ます。そしてもう二度と誰も十字架にかけてはいけない、誰も剣を持たない、誰も見棄てない、困難から逃げない、その力を私たちはいただくのです。その十字架から私たちは力をいただき、平和を願い求め続ける者となるのです。決意に先立つ恵み、勇気、励ましを頂くのです。

平和を願い求める時、32節後半です。イエス様は「父が共にいて下さる」と、確信を持って進んでゆかれます。そしてまるで自分にも言い聞かせるように、苦難があっても、勇気を出しなさい。神が既に世に勝っていて、共にいて、必ず平和を実現して下さると言います。神様がその力を私たちに、平和を実現する力を私たちにお与えになるのです。

平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。私たちの教会は、この教会を建て続けるという決心を何度も打ちのめされそうになりながらも、神様によって建てられ続けていました。そして平和を語り続けてきました。それができたのは、ひとりひとりのがんばりに先立つ、十字架のイエス様がいたからです。私たちは十字架のイエス様から、励ましと勇気をいただく事で70年間を歩んだのです。それは平和の尊さと、平和の難しさを知りながらの歩みです。この70年間を主に感謝しましょう。神様の励ましと勇気によって、十字架の励ましと勇気によって、私たちは立たされ平和を語り続けてきたのです。

これからも神様は共にいて下さいます。私たちは平和を求め続け、み言葉に聞き続けましょう。神様からの勇気を求め続けましょう。お祈りします。