【全文】「私たちは羊、イエス様は羊飼い」ヨハネ10章1節~16節

みなさんおはようございます。今日も共に集まって礼拝をできることを感謝します。私たちは子どもたちを大切にする教会です。今日も共に、声を聴きながら礼拝をしましょう。そして子どもというテーマで今月はみ言葉を聞き続けています。

子どもというテーマで聖書を聞きますが、今日は後ほど敬老祝福祈祷を持ちます。先日ある木曜日、教会員のSさんの家を訪問しました。100歳になられたお祝いに伺ったのです。木曜日でしたので午前中はこひつじ広場で0歳の子どもと遊び、午後は100歳の方を訪問するという一日でした。0歳も100歳も大事にする。教会っていい場所だなと思いながら、それに携わる牧師の仕事って幸せな仕事だなぁと思いながら帰ってきました。

Sさんは娘さんと一緒にYouTubeで礼拝をされたこともあるそうです。今日も一緒に見ているでしょうか。離れていて、オンラインで礼拝に参加している方々も、共に心を合わせて礼拝をしましょう。

私たちはヨハネ福音書を1年間かけて読もうとしていいます。途中で礼拝をテーマにした期間は少し違う箇所を取り上げる日もありましたが、今日でヨハネを取り上げるのは36回目になります。あと5回ほどヨハネが続く予定です。ここまで一緒に読んできたヨハネ福音書の特徴を振り返ってみると、いくつかのキーワードが思い浮かびます。光、言葉、羊、女性、対話、従う、そして私は〇である、といったことがキーワードだったでしょう。ほかの福音書よりもこういったキーワードが繰り返し語られています。

またほかの福音書と比較すると、たとえ話が少ないことも気づきます。ルカによる福音書では放蕩息子、マタイによる福音書ではからし種のたとえが有名です。でもヨハネ福音書にはたとえ話が少ないのです。私は光だ、私は子羊だという比喩はたくさんあるのですが、ストーリーとして物語るようなたとえばなしは多くありません。ですから今日の個所を味わって読んでゆきましょう。

 

 

羊飼いの大事な仕事は何でしょうか。それはまず羊を群れにすることです。羊は弱い動物です。一匹一匹ではとても弱く、襲われたり、迷ってしまう動物です。羊飼いは迷わないように、羊を群れにさせます。

そして羊飼いは羊の群れに餌となる草を食べさせるのも大事な仕事です。草のある場所へ羊の群れを導きます。適当に、やみくもに導くのではありません。しっかりとどこが豊かな草に覆われているか、どこに草がないかを知っているのが羊飼いです。水も同じでしょう。井戸や水のある場所も知り、導くのです。

獣から羊の群れを守るのも大事な仕事です。狼などの野獣に出会うときは、石を投げてその野獣を追い払ったそうです。時には自分の命を危険にさらしても羊を守る、それが羊飼いです。それだけ羊飼いが羊の群れを大事にしていたということです。

また夜に出て行ってしまわないように、あるいは夜に獣に襲われないように安全な囲いの中に入れるのも、羊飼いの仕事です。羊たちは囲いの中で安心して眠ることができます。

そしてただ囲いに入れるだけではありません。門で羊飼いは、羊の群れ一匹一匹がケガをしていないか点検します。羊飼いはそうやって群れの一匹一匹を丁寧に見るのです。

羊飼いは羊一匹ずつに名前をつけ、見分けることができます。例えば水辺や牧草地ではほかの羊のグループと混ざってしまうときもあります。あるいは共同で囲いを作り、羊をその中に入れるときもあります。しかし羊飼いはどれが自分の群れの羊かをしっかりと見分けることができます。それほど一匹一匹を知っているのです。

羊飼いの仕事はこのような仕事です。集める、導く、守る、食べさせる、けがをしていないか点検する。それが羊飼いの仕事です。

今日のたとえでイエス様は11節でご自分を「私は良い羊飼いだ」といいます。イエス様はこのようなお方なのです。イエス様は羊飼いのように、私たちを集め、守り、食べさせ、けがをしていないか点検する。それがイエス様というお方です。

私たちはイエス様に集まられて礼拝する群れです。私たちはイエス様に日々を守られている群れです。イエス様に生きる糧をいただく群れです。私たちはイエス様に優しく見守られている群れです。イエス様の囲いの中で安心して眠る群れなのです。

ヨハネには羊という言葉がよく出てきます。羊は弱い動物ですが、その特徴は、4節自分の羊飼いの声を聞きわけることができるということです。似ている声であっても、自分の羊飼いの声ははっきりと聞くことができるのです。聞き分けることができるのです。

そしてその弱さゆえに、羊は群れになる。一人では生きていけないからです。その群れはただ群れる、集まるのではありません。羊飼いによって群れとされるのです。

この人についていけば、この人に導かれれば、安全だと信頼をするから、多くの羊が従います。群れになるのです。もし私がけがをしたら、もし私の足が遅くても、この羊飼いなら、私を置いていくことがない。私が野獣に襲われるとき必ず、自分を危険にしても助けてくれる、それが私の羊飼いだと従うのです。

その信頼ゆえに、羊は羊飼いの声を聞き分けます。ですからこの群れは、ただの群れではなく、羊飼いを信頼する群れです。羊同士には親子や血のつながりがあるかもしれませんが、一番はこの羊飼いに信頼する仲間という関係です。このように羊と羊飼いとの特別な信頼関係、そして羊同士の信頼関係がこの群れにはあります。それが羊、羊の群れです。

このたとえでイエス様は、私たちのことを羊の群れだと言っています。羊の群れとは教会のことです。私たちはイエス様のもとで、み言葉を聞く群れです。私たちは何が神様のみ言葉かよく聞き分ける群れです。

一人一人は弱いかもしれません。でもだからこそ群れ・教会になります。その群れは、どんな時も私たちを導いてくださるイエス様に信頼する群れです。その群れ、教会の仲間は、おなじ一人の方を信頼する仲間です。それぞれにイエス様を信頼する群れです。

そしてそれぞれがイエス様を信頼する時、私たちの間にも特別な信頼関係が生まれます。それが教会の交わりです。教会にいくと眠くなる、そんな方いませんか?教会で眠くなるのはきっと、囲いの中で、信頼関係の中で安心をするからでしょう。イエス様への信頼、仲間への信頼があなたを眠くさせるのでしょう。

そして牧師ということばがある。でも私は本当は羊飼いではありません。本当の羊飼いはイエス様ただおひとりです。私もみなさんと同じ羊です。お互いに、こっちこっち、あっちあっちと言いあいながら、一緒に羊飼いに従う羊です。ちょっと色の違う羊ともいえるでしょうか。

今日のたとえには羊の門という言葉も出てきます。この信頼できる安心の中に入ることができるのが門です。この門は、信頼と安心にいたる門です。しかし、良い羊飼いの門だけではなく、偽物の羊飼いもいます。

偽の羊飼いは見た目はそっくりでも、羊を大事にしません。13節、羊は心にかけられない、大事にされないのです。その群れでは、羊は困難な状況になるとすぐに切り捨てられ、置き去りにされてしまいます。一度、獣に狙われたら最期、自分の力だけでどうにかするしかありません。逃げ足の速い羊しかもう生き残れません。自助・公助・共助という言葉がありますが、この群れは厳しい自助を求められます。自分の力で生き残るしかないのです。この群れに安心はありません。本当に羊を大事にする羊飼いの中でこそ、羊は安心して生きて行けるのです。

このたとえでイエス様はご自分をこの門だといいます。信頼と安心に至る入り口だというのです。この入り口に入らない世界とは、偽りの指導者に導かれる世界です。そこは弱肉共食の世界です。弱者、こども、高齢者は切り捨てられ、見放される世界です。だれも他者を助けようとしない、自分の力だけで、周りなど見ずに、一生懸命、ただ自分の命のためだけに恐怖から逃げ続けるのが人生になる。そのような世界です。

イエス様は16節まだこの信頼と安心の囲いに入っていない羊がいるといいます。今まさにそのような厳しさの中に生きている人がいます。その人は声をかければ必ず聞き分けるでしょう。こっちの門の方が安心できるよ。必ずその声は聞き分けられるはず。

16節の最後こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになるとあります。もうお判りでしょう。イエス様という一人の方に導かれ、私たちは教会になるということです。

イエス様は私たちの羊飼いです。私たちを安心と信頼に導くお方です。私たちは羊の群れです。私たちは主を信頼します。そして私たちは同じ主を信頼する者として、互いに信頼しあいながら歩みます。世界では見捨てられる人がいます。私たちとともにこの羊飼いのもとで生きよう、私たちはそう伝えたいのです。

さて、今月はこどもというテーマでもみましょう。子羊は群れの中でもっとも大切にされる存在です。ぜひ私たちも名前を呼びあい、傷ついていないか点検しあう羊でいましょう。この場所を子どもたちに信頼と安心を感じてもらえる場所にしたいです。教会の子どもたちだけではなく、多くの子どもたちの名前を覚え、安心してもらいたいのです。きっと子供たちは聞き分けて、信頼してくれるはずです。

 

このあと高齢者祝福祈祷を持ちます。年を重ねた羊ももっとも群れの中で大切にされる存在です。私たちは、子どもも大人もイエス様の信頼と安心のもとにある、一つの群れです。ともに神様の導きと守りを感謝し、信頼し、互いに祈りあいましょう。私たちは羊、イエス様は羊飼いです。お祈りをいたします。