【全文】「食糧問題とキリスト教」ヨハネ6章1節~15節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることに感謝です。また子供たちも集ってくれています。私たちは子どもを大切にする教会です。共に礼拝できる恵みに感謝です。今月は世界をテーマに宣教をしています。そして今日は収穫感謝の礼拝の時を持ちます。収穫感謝礼拝は通常11月に持たれてきました。アメリカに渡ったクリスチャンたちが飢えに苦しんでいるとき、先住民から食べ物を分けてもらったということが起源になっています。

おいしい秋の実りに感謝ということよりも、食べ物への感謝を表し、飢えと分かち合いを覚える時です。今年度はこの収穫感謝の時を、10月16日の「世界食糧デー」に合わせて、10月第2週とさせていただきました。特にこのことを覚えて礼拝をしてゆきたいと思います。

私も平塚に来てから小さな家庭菜園をしています。今年はジャガイモにチャンレジをしました。ポテトサラダを作ってもらおうと思っていたのです。しかし残念ながら、あまり大きく育たず失敗をしました。。ジャガイモの葉がすべてバッタに食べられてしまったことが原因でした。来年は虫除けネットをしようと思います。

今年、教会の庭はなぜかバッタが去年より多くいました。ほかの植物の葉も柔らかいものはどんどん食べられてしましました。バッタが多かったのは雨が多く、植物がよく育ったからでしょうか。

教会の庭と世界が関係しているわけではありませんが、今年はアフリカでもバッタ(サバクトビバッタ)が大量発生し、大きな被害を受けています。原因は気候変動によって、普段雨の降らない場所に雨が降り、生物の生息数に変化が起きたからと言われています。

農作物にも甚大な被害が出ています。1日で数万人の食料がなくなるほどの被害を受けているということです。

さらにコロナの影響も、バッタの被害を拡大させました。流通網がストップしたことから、殺虫剤が現地に届くのが遅れたのです。バッタ、コロナの二つの影響で飢餓と栄養不足が拡大しています。通常でも多くの人が飢え、栄養不足でいるなか、さらに2500万人が、バッタとコロナの影響で飢えに苦しんでいると言われます。

アフリカではもともと20%の人々が栄養不足と言われていますが、このままでは2030年には25%に、つまり今より3割も多くの人が飢えるようになるということです。国連はSDGsの目標のひとつ、2030年までに飢餓をなくすという目標を立てていますが、その目標が、達成できない見込みだと報告しています。今後10年するとますます飢餓は広がると見込みを立てています。

飢餓は最も体力のない、子どもに様々な影響を与えます。成長期に必要な栄養が不足することは、一生の体格や健康を左右します。他にも教育の機会などにも影響を及ぼします。

コロナで世界とのつながりを知った私たちです。この飢餓の問題も世界の裏側の出来事として見過ごすことはできません。私たちは収穫に感謝するとき、世界の共通の課題として飢餓・栄養不足の問題を覚えたいのです。

教会は毎年バザーの収益の一部を日本飢餓対策機構という先に寄付をしていました。今年はバザーがないので、寄付することができませんが、合同の募金箱を設置しています。どうぞおささげください。また飢餓対策機構では使わなくなった歯ブラシを集めています。リサイクルをすると1本2円になるそうです。教会からもホームレス支援物資の中から使わない歯ブラシを寄付しました。家にいっぱいあるという方はお持ちください。

身近な食料問題への関わりでいうと、私たちの子ども食堂の取り組みもそうです。先週の執事会で検討しましたが、子ども食堂を10月からOPENしようと思います。世界には、そして平塚にも十分な栄養を得ることができず、様々な問題を抱える子どもがいます。世界で起きていることも考えながら、私たちの身近な場所から、できることからをしたいと願っています。

そして聖書には多くの飢餓が描かれています。それがきっかけで様々な信仰が起こされています。どのように聖書・キリスト教とこの食糧問題・飢餓問題は関りがあるのでしょうか。今日も聖書から読んでゆきたいのです。おそらくそれはキリスト教がこの食糧問題、飢餓問題に古くから関わる原因にもなっています。今日イエス様がどのように食糧問題・飢餓問題に向き合うのかを見てゆきたいのです。

 

 

今日の聖書の個所、5000人の共食と呼ばれる個所です。4つの福音書すべてに記されている、大切な物語です。イエス様に従う人々は、自分では今日食べるものも準備できない、貧しい人々の集まりでした。おそらく土地を持たず、小作農として雇われ、その日のわずかな糧を不安定に得ていた人々です。激しい格差と食糧不足の中にあった人々がイエス様に従っていました。

イエス様はこの問題に関心を寄せるお方です。宗教の役割を心の内面に関わることだけに限定しません。おなかを満たしてゆくこと、身体の必要を満たしてゆくことも、宗教の役割とするのです。

イエス様は弟子たちがこの食糧問題・飢餓問題にどのように向き合うのか見ておられました。特にフィリポに尋ねています。イエス様は「どこにこの人々のパンはあるか?」と『どこ』にあるのかを聞きます。しかし、フィリポの答えは『どこ』にではなく、『いくらかかるか。どの程度の経済対策が必要か』ということについて答えています。

イエス様の問いとは『どこ』にその解決があるかを考えてみよという問いでした。しかしフィリポは、問題の解決は無理、こんなに大きな問題は私たちの手に負えない、必要な食料が多すぎて、経済的な打撃が大きすぎて解決できないという回答をしたのです。これではイエス様の問いに答えていません。答弁のすり替えです。

もう一人の弟子アンデレは正しく「ここにある」と答えています。おそらく、この深刻な状況を知った、ある子どもが自分の持っている分をささげたのでしょう。子どもが一人進み出て、自分の食べ物、5つのパンと2匹の魚をみんなと分けたいというのです。ほほえましい光景です。

みなさんだったらそれを受け取るでしょうか。私だったらこれを受け取ることを躊躇します。一番食べ物が必要なのは子どもです。一番私たちが優先して食べてほしいと思うのは子どもだからです。最も小さく、もっとも抵抗力がなく、成長に必要なあなたが、そしてこのパンの持ち主であるあなたが、まず優先して食べるべきです。

しかし今それを、子どもがささげています。一番必要なはずのあなたが、一番小さいはずのあなたが、ささげています。私がイエス様だったらこれを受け取れません。

これは君の分でしょ。自分で食べていいよ。大人は大人でどうにかするから、心配しないで「まず君が食べな」そう言うでしょう。あるいは本当にそういうやり取りがあったかもしれません。

しかしイエス様は不思議にもこのパンを受け取りました。圧倒的に不足する食糧に対して、こども一人の小さな捧げもの、大切なものを受け取りました。イエス様は貧しく、最もそれを必要としている子どもの捧げものを受け取ったのです。

 

そしてイエス様はその5つのパンと2匹の魚に感謝し、祈りました。小さな者の小さな捧げものを受け取られるのです。それをみんなと分け始めたのです。5つのパンを5000人で分けることはできないはずです。しかし不思議にも、それはなくなることなく、全員に行き渡り必要な分を満たし、なお12かごいっぱいに余った、まだ他の人が食べる事ができるほどに増えたというのです。

イエス様は不思議な力の持ち主です。小さな者の、小さな捧げものを受け、それを何倍にも、1000倍にして返してくださるお方です。この奇跡を私は手品のように受け取るのではなく、捧げれば魔法で増やしてくれるのではなく、象徴として今日受け取りたいのです。イエス様は一人の小さな者の、小さな捧げものを大きくして下さるお方だということです。

私たちはあまりに多くの人々の飢え・栄養不足に直面した時、無力で自分一人が何かをしても、ほとんど世界は変わらないと感じてしまいます。私は役に立たないと感じてしまいます。でもそうではないと、イエス様はおっしゃっています。小さな私の、本当にできる限りの小さな捧げものが、イエス様によって、大きなものへと変えられてゆくということを見せられているのです。いえ、むしろ最も小さい者の、小さな捧げものが、世界を変えるというのです。だから、どんなに私が小さくてもできることから、小さくてもそれに向き合いたいのです。

私たちは今、グローバルな課題への対処が求められています。気候変動や食糧問題、プラスチック問題。そのどれもが私たちにできることはあまりにも小さいのです。自分一人がしたことで、何も変わらないのです。課題のスケールが大きすぎるのです。でもイエス様はそのスケールに対してあまりにも小さい行動をしっかりと受け止めて下さるお方です。そしてそれを大きくし、解決へと導いてくださるお方なのです。

世界にパンが行き渡ること、私たちが少しでも世界と分かち合うこと、必ず世界は一致できることを覚えて、私たちは歩んでゆきましょう。私たち小さい者の小さな行動を、必ずイエス様は大きなものとして下さいます。それは様々な問題においても同じです。私たちは収穫感謝の時、その恵みに感謝し、歩みだしましょう。お祈りします。