【全文】「低みに立つ宗教」ヨハネ13章1節~20節

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちとともに礼拝をしてゆきましょう。

私たちは今月「世界」というテーマで聖書読んでいます。主の晩餐について、食糧問題についてなどを考えてきました。キリスト教の視点から世界を見てきたわけですが、それと同時に世界から見てキリスト教はどう見えるのだろうかと考えます。

世界を見渡す時、宗教が原因の一つとなる紛争があることは認めざるをえない事です。宗教の違いが他者との違いを際だたせ、対立を生む時があります。宗教が自分のみを正しいと信じ込ませ対立が起きる時があります。先日ようやく停戦合意したアルメニアとアゼルバイジャンの紛争の背景もキリスト教とイスラム教の対立があると言われます。日本でも一神教は自分だけが本物で、あとは偽物とする、排他的な宗教だと言われることがあります。一神教だから寛容になれず、戦争を起こすのだといわれます。その批判は十分に受けとめたいと思います。

実際に私たちにはそのような態度があったかもしれません。他者が手を合わせて大切に拝むものに対して、十分な敬意を払わずに、偽物と否定をしてきたもしれません。あるいはキリスト教に比べて劣った宗教として見下すことがあったかもしれません。ただし多神教だからといって戦争が起こらないというわけではありません。ミャンマーのロヒンギャ問題は仏教勢力が関わっているといわれていますし、日本の仏教・神道の歴史の中でも戦争は繰り返されてきました。

私たち自身は他の宗教とキリスト教を徹底的に比較して選んだわけではありません。私たちはただ聖書に出会い、主なる神に出会い、イエス・キリストを信じているのみです。私たちはイエス・キリストと出会い、この方こそ私たちの模範となる人だ、そう信じているだけです。

もし他の宗教から私たちへの批判があれば、それを聞きますし、その態度を変えたいと思います。もちろん時には私たちが他の宗教を批判することもあるでしょう。私たちは違う神を信じる人と、どのように共に生きてゆくことができるでしょうか。異なる神を信じる相手に対して、私の神だけが唯一の神で、あなたの神は偽物だとは言いません。私自身はこの神を神と信じます、この方しか拝みません。でも異なる神を拝む人がいればそれを尊重したいと思います。私もそうして欲しいからです。

いろいろな宗教も元をたどれば一つの神に行きつくはずだと考える人もいます。宗教多元主義と言います。私はそのような立場を取りません。共通点を感じながらも、大きな違い、出発点もゴールも違うと感じることが多いからです。

私たちは自分の神をしっかりと紹介し、そして相手から紹介される神のことをよく聞きたいと思います。そして自分の神との違いを知りたいのです。そしてその時、自分が正しいという前提を一度置いて、他者と対話したいのです。神様からのメッセージは別の宗教の信じる人からも伝えられることがあるのです。クリスマスの物語、星占いの博士たちがイエスの誕生を最初に知ったようにです。

私たちはキリストについて証ししつつ、他の宗教と常に対話をします。そしてそれは私たちにとって新しい出会いであり、私たちキリスト教はそれによって変わる可能性があります。私たちは決して他の宗教を見下しません。他の宗教を見下すときが暴力的な関係が始まるのです。

私たちキリスト教はどのように神様に出会うでしょうか。私たちの神様は低きにいる神です。私たちの神は弱さの中にいる神です。それは何かを積み重ね、階段を上っていくと近づき、会える神様ではありません。私たちの神は、低い場所にいる神です。階段を下っていくと会える神です。

階段の一番下で私たちは十字架のイエスに出会います。高みに行こうとすれば、私たちの神とは離れてゆきます。神は弱き者、小さき者とともに、その人々のいる底辺におられます。弱い者、小さい者、弱い私、小さい私を探し、階段を降りる時、神様と出会うことができるのです。それはちょうどこの図のようです。

キリスト者が神様に近づこうとする時、そして他の宗教の人々と対話する時、大事にしたいことは、階段を下りて対話することです。低みから話し、聞いてゆくことです。イエス・キリストが傷つき叫んだ、あの十字架の下で聞くということです。

見下して聞かないこと、見下して語らない事。低みから証しすること。そこから私たちの対話は始まります。教会は、キリスト者はそのようにして世界に仕えたいのです。なぜそうするのか、それは私たちがイエス・キリストを模範とするからです。そのイエスの姿を見てゆきましょう。

 

 今日の聖書個所を読みましょう。私たちはイエス・キリストを唯一の模範として聖書を読みます。今日の場面でイエス様は弟子の足を洗ったとあります。その仕事は本来奴隷の仕事でした。当時は乾燥し、もちろん舗装されていない大地をサンダルで歩く生活をしていました。足はホコリと汗と泥にまみれていました。その汚れた足を洗うのは奴隷の仕事、召使いの仕事でした。しかし今日の場面では主イエスご自身が足を洗い、布でふき取ってくださっています。

主人であるイエス様は弟子の中で、自分を最も低い立場に置かれました。そしてこの後、ヨハネ福音書は十字架の出来事へと続いてゆきます。階段を降り、低みに立ったイエスが、十字架にかかってゆくのです。まさしくこの図の歩みはイエス様の歩みでした。イエス様は特別な力をもって人々の上に君臨するのではなく、人々より低い場所に、底辺に立つのが私たちの神様でした。

イエス様が足を洗った弟子の中には様々な人がいました。そしてイエス様は18節、どんな人を選んだのかを知っていました。この中にイスカリオテのユダも含まれています。2節によればすでにこの時、彼には悪魔が入り、裏切るつもり、売り渡すつもりでいたのです。イエス様はその悪魔が入った裏切り者の足さえ洗うのです。

ペテロもいました。この後ペテロはイエスのことなど知らないと3度言う者です。この後イエスとの関係を否定する者です。イエス様はその彼の足さえ洗ったのです。イエス様は裏切らない人、イエスを信頼した人、清い人の足だけを洗ったのではありません。その場所にいた全員に低くひざまずき、足を洗ったのです。イエス様はそのように全員に、低く立たれたお方です。

1節にはこうあります「世にいる弟子を愛して、この上なく愛し抜」いた。イエス様は自分に反対する、自分と違うどのような人間をも、大切にした、この上なく大切にし抜いたお方でした。どこぞの総理大臣のように、自分に反対する人は異動させるような人とは違います。愛し、この上なく愛しぬくという表現、それは徹底的に大切にするということ、裏切られようが、見捨てられようが、最後の最後まで相手を大切にし続けるという意味です。イエス様はこのように、弟子たちに低く立たれ、大切にするお方でした。

弟子もこの姿には驚き、戸惑ったのでしょう。ぺテロは言っています「洗わないでください」と。本当はこれは私がすべきこと、あるいは奴隷がすべきことで、主であるあなたはもっと別のことをすべきだということです。あなたは主であり、神の子であり、キリストである。あなたはもっと威厳のある関わり方があるはずだと言います。図で言うならば、もっと高みから私たちと関わるべきだということです。

しかし、イエス様は言います。8節「私があなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」というのです。それは低みに立つ神と人という関係以外に、神と人との関係は何も無いということです。神が低みおられるからこそ、神なのだということです。もし私たちが神様の足を洗うように、神が高き所にいるならば、もうそれは神と人との関係ではないということです。

神様はどんなときも、私たちより低い場所におられ、私たちの足を洗い、私たちを愛し、愛し抜く、最後の時まで大切にしてくださるお方です。

14節・15節では私たちも互いに足を洗いあいなさいとあり、このイエス様の姿が私たちの模範であると言います。今日イエス様の姿から何を学ぶでしょうか。私たちは宗教や立場を超えてどのような人にも向き合い、仕えてゆくことができるのかが問われているのではないでしょうか。裏切り者の足を洗うほど、低みに立つ神がいます。低みにいる神とそこに下ろうとする人間、そのような関係でなければ、神と人との関係ではなくなると言っています。

イエス様は私たちの間にも同じように、この関係を求めるお方です。私たちにも互いに足を洗いあうように求めるのです。低みに立って、どんな人でも愛し、愛し抜く、最後まで大切にし続けることが求められています。もちろん洗われることも必要です。弱さを分かち合ってゆくことが必要です。

そしてその時、私たちは互いの弱さに触れあい、共に神を、十字架のイエス・キリストを見つける仲間となるのでしょう。19節、「事が起こる前」あるいは「事が起こったとき」の「事」とは十字架の出来事のことです。十字架とはイエス・キリストが最も低い場所に立たれた出来事です。神の子が人々の手によって殺される、神が最も低い場所におられた出来事です。イエス様は言います。私が最も低みに行く時、あなた方は私を信じるようになる。低い場所でこそ、神と出会い、神を信じるようになるというのです。

私たちには様々な対話があります。異なる宗教との対話が世界で、私たちの日常で起こされています。私たちはそれを低みから続けたいのです。今まで昇ってきた階段を下りて、低みにいる十字架のイエスの下で出会いたいのです。

キリスト者が神様に近づこうとする時、そして異なる宗教の人々と対話する時、大事にしたいことは、階段を下りて対話することです。低みから聞いてゆくことです。そして最後まで相手を愛し抜くこと、最後まで相手を大切にし続けることです。

私たちそのように低く下る時、イエス・キリストが傷つき叫んだ、十字架に近づくことができるのです。私たちは互いに足を洗いあいましょう。低みに下りましょう。そのようにイエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストをこの地上に遣わした神を信じましょう。お祈りいたします。