「病と死でも続く、神の愛」ヨハネ11章1節~16節

今日は召天者記念礼拝です。私は以前、小さな病院でアルバイトをしていました。そこで感じたのは病院は患者さんが死を迎えた後、できることがほとんどない、無力だということです。病院では死をもってその人との関係が終わるのです。あるときクリスチャンの方が入院されました。病室にはいつも讃美歌が流れ、私も時にはベッドの横で祈ったりしました。その後亡くなりましたが、不思議とその死への無力感が和らいだように感じました。祈りは、死への無力感に対し不思議な力を与えてくれるようです。

この地上の命は死んだら終わりかもしれません。でも私たちの神様の下にある命という関係は、死んでしまったら終わりというものではありません。私たちは生きていても、そしてたとえ死んでしまっても、祈りの関係の中にいます。そして誰よりも神様が私たちの地上の命を愛し、祈って下さっています。たとえ死に、地上の命を終えたとしても、神様の愛は変わりません。永遠に続くのです。今日はそのことを聖書から分かち合いたいと思います。

今日の個所、イエス様の友人が病の中にあります。しかしなんと2日間も訪問を延期したのです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と。

これは関係は死で終わりではないということを示します。死で終わらずに、その先に神様との関係が続いているということを示しています。死によっても神様との関係は終わらず、神様に愛され続けるのです。

イエス様は死で関係を終わらせず、関係を持とうとするお方です。だからイエス様はラザロが死んだ後に尋ねたのです。イエス様は死を眠りと表現します。死をすべての終わりではなく、眠っている間のように、関係は続くのだと言うます。イエス様はすでに死んだ者にこそ関わる姿によって、死後も神様との関係が続くということを伝えました。

死者に関わり続けるのが神様です。生きている時と変わらぬ愛で、亡くなった方たちを包んでいる、それが神様です。そして今日、私たちもこの同じ愛の内に全員がいます。生きる私たちもその一人です。生前の姿や生死さえ問わず、神様は愛し、会いに来られるお方です。これが無条件の愛です。

聖書を読み進めてゆくと、この後イエス様ご自身が死ぬことになります。でも私たちはイエス様が死んで終わりではなかったということを知っています。イエス様がご自身の十字架をもって、死がすべての終わりではない、神様の愛はずっと続くのだと示したのです。

今日私たちは召天者記念礼拝に集ったのは、この死を忘れないでいるためです。神様の愛は、病の中でも、たとえ死んでしまっても変わらずに続きます。だからこそ私たちも神様に変わらず祈りを続けてゆきたいのです。十字架の死が終わりではなく始まりであったように、私たちも共主イエスの十字架から日々を出発したいのです。