【全文】「生活困窮の神」マタイ25章31節~46節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができ、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。

私たちの教会は生活困窮者のためのシェルターを設置しています(場所は非公開です)。私が来て1年半ほどですが、多くの方が利用されました。宿泊の申し込みの方法は様々です。教会関係からの紹介、DVの相談機関からの紹介、直接訪ねてくるケース、市から依頼されるケースなど様々です。

シェルターに誰かを泊めるのは、正直言って心配です。怖い人ではないか、ちゃんとルールを守ってくれる人か、突然いなくなったりしないか・・・。考えれば考えるほど、断った方がいいに違いありません。

しかし、ここに泊まらなければ、その人たちは野宿をしなければいけません。それは私が泊める危険以上に、彼らにとって雨風にさらされ、無防備で、より危険なことです。私は宿泊の依頼をほとんど断ることができません。1週間ですが、住む場所が見つかるまでの間、シェルターを貸します。

本当はじっくり話を聞いて、事情がよく理解できてから受け入れるかどうかを判断したいと思っていますが、そうできないときの方が多いです。疲れ果て、今日泊まる場所に困っている人に、まず一から事情を教えてほしいというのはあまりにも酷です。多くの場合、簡単な事情を聴くのみでお貸ししています。

シェルターを利用される方の多くは、部屋に入ってすぐに眠ります。初日はほとんど一日中寝ているでしょうか。ここにたどり着くまでの様々な困難にへとへとになっているのです。何より、寝る場所がある、食べ物があることに安心して、ぐっすりと眠るのです。朝会うと、久しぶりに布団で寝た、久しぶりに朝までぐっすり眠れたと言います。翌朝、着るものが必要であれば、着る物を。食べるものが必要であれば食べるものを渡します。時にはこちらからするとわがままに思えることも要求されますが、なるべく応えるようにしています。

私たちがこの支援をするのは、困っている人を助けるためです。なぜ人を助けるのか、そこに目的は必要ありません。神様が造った命を守ること、助けることが目的だからです。利用される方の中には、礼拝に参加したいとおっしゃる方もいます。本当に礼拝に興味のある方と「泊めていただいているのだから、それくらいは参加しないと」と気を使ってくれている方の半々といった印象です。私は「ご自由にどうぞ」とそっけなく応えるようにしています。

私たちは礼拝参加を条件にシェルターを貸しているのではありません。無言も圧力になります。私たちは何かと引き換えに支援をしようとしているのではありません。ただその神様の造られた命を守るために、短い期間ですが泊まる場所をお貸ししているだけです。

宿泊は原則1週間としています。1週間、一緒の敷地に住むというだけで、お互いのことを理解しあい、互いに親近感を持つものです。毎回シェルターを利用された方が出発する時は寂しさを覚えます。「もう少し泊まっていけば?」と言いたくなる気持ちもありますが、彼らには次の行き先があります。

シェルターを利用し、また旅立っていく時の顔は、はじめて教会を訪ねた時の顔とだいぶ違う表情であるように感じます。少し安心したような、でも力強いような、でもやはり不安そうな表情です。利用者がいなくなると、私の気持ちは寂しくもあり、正直ほっとする気持ちもあります。また次の方はいつ来るだろうかと考えながら見送っています。

私がこの支援をするときに大事にしているのは、必ずこの方に神様の力が働いて、道が開けてゆくはずと信じて支援をすることです。いろいろな諦めや疲れを覚えてこの教会を訪ねます。きっとその回復には時間がかかるでしょう。でもその中に必ず神様の力が、必ず働くと信頼し、この支援を続けています。今は苦しいことが重なっているけれども、必ずこの方に神様の力が与えられ、平安で、その人らしい人生を、輝いて生きるときがくる。笑顔になるときが来る。神様がそうしてくださると信じて支援をしています。私はその神様への信頼を試されながら、この支援を続けています。神様への信頼を問われる1週間です。やっぱり難しいかな、いやきっと何か道があるはず、そう信じる1週間です。

きっと神様を知る方法は、聖書を読むということだけではのだと思います。そのような人との出会い、関係を通じても、神様はご自分の力を私たちにお示しになるのだと思います。

私たちはそのような人との出会いを大切にしましょう。シェルターのみならず、サロン虹、こひつじひろば、こひつじ食堂、バザー、炊き出し、そして新来者すべてにおいてそうです。そのような出会いを、神様の力がきっと示される出会いとして大切にしてゆきましょう。

 

今日の聖書個所もそのように語っていると思います。私たちの愛は見返りを求めません。命を守るそのこと自体が目的です。そして支援を通じ神様の力を見るようになるということです。今日の個所からそのことを共にいただきましょう。

今日の個所にも生活困窮者が登場します。目に浮かびます。食べるもの(食)・住む場所(住)着るもの(衣)・健康・外出の自由が不足している人がいました。今日私はその世話をした人につい注目がいってしまいます。

35節、ある人はこの人にできる限りの世話をしました。誰かに衣食住、特に住居を支援するのは簡単なことではありません。彼は時間やお金や労力を割いて、自らの危険を冒して、その人の助けとなったのです。彼は見ず知らずの人を招き、精一杯のもてなしをしたのです。

どのくらいの期間を共にしたのかはわかりません。1週間かもしれません。おそらくその期間で支援を受けた人は、心身ともに休息の時間を得たでしょう。初日はぐっすり眠ったでしょう。寝る場所と食べるものを得て、安心をしたでしょう。励まされたでしょう。そして安心と、力と、不安をもって、そこを旅立つときが来たのです。

自分も、もう一歩頑張ってみよう。自分の人生に向き合ってみよう。次の目標に向かってみよう。そう励まされたのです。住居を提供した人は、いつかきっと見返りがあるはずとは思ってもいませんでした。その後すっかりそのことは忘れ、過ごしていたのです。

なぜこの人は助けたのでしょうか?目的や理由は書かれていません。きっとなぜ助けたのか聞かれても困ったでしょうか。助けることに目的があったのでしょうか。きっと助けること自体が目的だったのです。神様の造られた命を守る、それが目的だったのです。

あるときその人は王であるイエス・キリストに出会いました。自分が家を提供した人が神の兄弟・仲間だったという自覚などありません。助けたことすら忘れてしまっていました。しかし王、イエス・キリストに40節「助けたのは私の兄弟だ。それは私を助けたことと同じだ」と言われます。彼は驚いています。38節「いつ私がそんなことしたでしょうか?」と聞いている通りです。

私はこの物語から2つのことが大事だと思います。一つは住居を貸した側は何の見返りも求めず、見返りなど忘れるほどであったということです。彼は何かの見返りを求めていたのではありません。忘れるほどに、あらゆる見返りを求めていませんでした。もし助けたら、信者になってくれるかもしれない。もし助けたら地域に一目置かれるようになるかもしれない。もしかしたらこの人を教会に人を引っ張れるかもしれないと思って助けたのではないということです。目的は助けることそのものだったのです。

それは愛とも言い換えることができるでしょう。目的は愛そのものでした。愛を使って何かをしようとするのではなく、愛そのものが目的であったということです。見返りを求めずに命を大切にしてゆくこと、それが愛です。

もう一つこの物語で大事なことは、私たちはどのように神様に出会うのかという問題です。私たちは聖書のみ言葉によって神様と出会います。でもそれだけではないということです。困っている人、寂しい思いをしている人、自由がない人、最も小さい人、その人たちとの出会いの中で、神様に出会うということです。

その人たちに出会うと、私たちは神様への信頼を問われます。神様の栄光がその人に表れると信じれるかどうかが問われます。そして、その人たちを通じて私たちは神様の力を知るようになるのです。貧しい、困っている、寂しい、不自由、小ささ、その人たちと共に立とうとするときに神様と出会うことができるということです。

この二つ、見返りを求めない事、神と出会う事はきっと、これまでの、そしてこれからの私たちのすべての活動の中に言えることでしょう。こひつじ食堂、こひつじひろば、サロン虹、炊き出しやバザー。私たちがそれを行う時、その支援に立つとき、私たちは見返りを求めません。何か教会にメリットがあるからやるわけではありません。今日の聖書の中の、助けた彼と同じです。ただ神の命のために私たちは働きます。

そして私たちは教会の様々な活動の中で、出会いを大切にします。互いの痛みや悲しみ破れに関わることを大切にします。できる限り、共に立つこと、連帯することを大切にします。助けた彼が神様に出会ったように、そのことが神様との出会いにつながるのです。

私たちはこれからも地域を愛し、仕えてゆきましょう。見返りをもとめずに出会ってゆきましょう。そして私たちの教会の中でももちろんそうです。私たちこそ愛し合い、仕えてゆきましょう。痛み悲しみを共に祈りあってゆきましょう。必ず神様がすべての人に力を与えてくださるはずです。お祈りをいたします。