「神を共に待つ」マタイ11章2節~19節

 

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」マタイ11章3節

 

転入会の信仰告白の時を持ちました。新しい信仰の友が与えられることに感謝します。実は私も信仰がぐらついている者の一人です。そんな時私も、ここに集うことで励まされることがあります。私の信仰のぐらつきはいったん脇に置いて、共に礼拝する時間を持つとき、何かを一緒にするとき新しい道が開けることがあります。疑いながらでも、共にいる時間を持つということは大事なことかもしれません。

この転入会を本当に歓迎します。そして他にも新たにこの弱き者たちの輪に入って、共に集ってくださる方、励ましあって下さる方を探しています。私たちはコロナで集まる喜び、共にいる喜びを知りました。待降節を一緒に待ちましょう。一緒に祈りながら、共に礼拝に集いながら待ちましょう

私は今日の個所も共に集いその方を待つという歩みを聖書は語っています。バプテスマのヨハネは牢獄に捕らわれ、孤独の中にいます。3節「あなたが待つべき方でしょうか」という問いには疑いがにじみ出ます。牢獄という孤独の中で自分の信じていることが揺らいできてしまったのでしょうか。

どんなに強い信仰を持つ人も、その信仰は揺れるものです。一人ならなおさらです。そしてそれよりさらに強い確信が欲しいと彼は願って弟子たちを送ったのです。これを彼の不信仰の問い、疑いの問いとは思いません。イエスがキリストであるか確認することの何が悪いのでしょうか。信じたいという強い願いが、この問いには含まれています。

イエス・キリストの答えははっきりしません。「姿を見なさい」とだけしか答えません。そしてイエス様は目の見えない人、耳の聞こえない人、死んでしまった人と共にいたのです。それは説明や言葉よりも人々と「共にいる姿」を見なさいということです。救い主であるかということは、苦しみ、悲しみ、痛む人と共にいる姿からそれを信じなさいというのです。

私たちも大事にしたいことです。信仰の説明・説得をします。でもそれだけではなく、私たちが共にいる姿から信じることも幸いなことです。私たち自身が集まることに支えられているように、集まることでイエス様を伝えてゆけたらと思うのです。私たちが共にいる姿、共に礼拝する姿によって伝わる信仰があると思うのです。

もしかしたら私たち一人一人の信仰は葦のように、風に揺られ今にも折れそうかもしれません。しかしその中でも私たちは共にいるという幸いがあります。共にいることで確かな信仰とされてゆくのです。

私たちは待つ季節を頂いています。私たちは共に集えることを喜び、この時を待ちましょう。そこにイエス様への新しい信仰が生まれてくるのです。