【全文】「神が共にいる1年」イザヤ62章1節~5節

 みなさん、あけましておめでとうございます。YouTubeで参加されている方も、あけましておめでとうございます。一年のスタートをこのように礼拝で迎えることができることをうれしく思います。私たちは今年もこどもを大切にする教会です。こどもたちもあけましておめでとうございます。

元日の朝、気持ちよく迎えているでしょうか。今年はいつものお正月とは違う、不安をもって始まるお正月です。今年も1年どうなるのかなぁと不安に思いながらスタートしています。去年できなかったあの行事、今年はできるのでしょうか。今年も集まり続けることができるでしょうか。そんな不安なスタートの元日です。

そもそも神様がいるならどうして、こんなひどい禍が起きるのでしょうか。どうしてこれをとめて下さらないのでしょうか。そもそも戦争も災害も感染症も神様は止めて下さらないのでしょうか。これを止めない神様は、どこで何を考えているのでしょうか。

そもそも私たちは運動会の前に、明日晴れにしてくださいと祈っても、雨が降ってしまう時があります。熱心に「晴れにしてください、晴れにしてください」と祈っても、やっぱり雨が降る時は降ります。コロナも「終われ、終われ」と祈っていますが、なかなか終わらないのです。

神様は黙って、この世界の混乱を見ているのでしょうか。神様は存在するのでしょうか。「だから神なんていないのよ」という声が聞こえてきそうです。神様は私たちを見捨ててしまったのでしょうか。

実は驚くことに神様の子、イエス・キリストも同じ疑問を持った人でした。イエス・キリストは神の子なのに、十字架刑で殺されてしまいました。ひどい話です。

その時イエス・キリストは言ったのです「エリ、エリ、レバサバクタニ」「わが神、わが神なぜ私を見捨てになったのですか?」。なぜ私はこのまま死んでゆかなければならないのですか。イエス様はそう問いかけながら、死んでいったのです。悲しい出来事です。

私たちも今、イエス・キリストの十字架の叫びがよくわかるかもしれません。感染予防をしても、祈っても、コロナにかかる時があります。神様は私たちが感染することを防ごうとしません。クリスチャンはコロナにかからないということはまったくありません。どんな人にも等しくコロナはやってきます。教会だけは絶対に守られるというわけではありません。信じている人も、病にかかり、死ぬのです。

しかし、聖書は語っています。イエス・キリストが一番苦しい十字架の時も、神様はイエス様と一緒にいたということです。神の子が死ぬとき、神様はそれを止めなかったけれども、神は共にいたということを聖書は語っています。イエス様の最期の時も希望がありました、神様が共にいるという希望があったのです。

十字架のイエス・キリストが「神はどこにいった」と聞いたように、今私たちも聞くでしょう。神様はどこに行った。でもそれを問う時も、神は共にいたのです。片時も離れず、イエス・キリストと共にいたのです。私たちも同じです。どんなにコロナが広がって、どんなに死が広がって、どんなに絶望が広がっても、そのさなかにも神は共にいるのです。

旧約聖書の言葉ヘブライ語ではそのことを「インマヌエル」といいます。神はわれわれともにいるという意味です。つらく、不条理なことは人生に起こります。死は必ず訪れます。でも神様はどんな時も最後の最後まで私たちと一緒にいてくれるお方だと聖書は語っています。あなたは一人ではないのです。その希望を胸にいただき、私たちは1年をスタートしたいのです。

今年もコロナに振り回される1年になるでしょう。でもその中にも神様が共にいてくださるのです。その希望をいただき1年をスタートしましょう。今日の聖書の個所も同じことを語っています。一緒にお読みしましょう。

 

実は今日の聖書の物語も再スタートをする人々の物語です。当時イスラエルは戦争で負け、町や神殿はめちゃくちゃにされ、人々は強制的に移住をさせられていました。バビロン捕囚という時代です。

そしてこのイザヤ書62章の時代では、人々がその強制移住を終えて、故郷に戻ったという場面が描かれています。数十年ぶりにイスラエル・エルサレムにかえって来た人々です。人々は再スタートをするという気持ちだったでしょうか。希望を持った再スタートだったでしょうか。でも目の前には、戦争で焼かれ、捨てられ、手が入れられずに荒廃しきっていた町が広がっています。かつてソロモン王が建てた美しい神殿も焼けてもう残っていません。

新しい生活を始める希望と共に、目の前に広がる荒れ果てた光景の前に人々は希望を見失っていました。本当にこの町、この神殿を再建し、前に進んでゆくことができるだろうか。それにどれほど大きな困難がまっているのだろうか。に尻込みし、不安な思いでいました。

そんな時代に神様の声が、預言者を通じて響いたのです。再スタートを切ろうとする人々に、不安と希望が入り混じる、それでも再スタートせざるをえない人々に、神様は語り掛けています。神様が語り掛けているのは再スタートするイスラエルの人々であり、今日から1年を再スタートする私たちに向けてです。

1節にある「わたし」とは神様の事です。神様は絶対に口を閉ざさない人だとあります。神様はどんなときにも私たちに語って下さるお方です。私たちが疑う時も、信じる時も、希望の時も、不安の時も、神様は黙っておられないお方です。神様はこの1年も、絶えず、私たちにみ言葉を与えてくれるお方だということです。そしてみ言葉によって私たちを励まし、導いてくださるお方だということです。「彼女」とはイスラエルの人々、そして私たちのことです。神様は私たちが暗く沈んで生きるのではなく、松明のように、明るく光り輝く時まで、そのみ言葉を私たちに注いでくださるお方です。その時まで、必ず共にいてみ言葉を下さるお方です。

2節の「あなた」は神様の事です。2節で語られているのは、神様の正しさを全員が見る、目で見る時が必ず来るということを示しています。今つらく、不安だけど、神様が共にいるということを具体的に感じる時が必ず訪れるということです。

3節の「あなた」は、今度は私たちのことです。私たちはやがて冠、王冠となります。冠とは、誰が王であるか、誰が一番偉いのかを示すしるしです。私たちその王冠となるのです。今、荒廃した町の前で、不安と希望を両方があるけれども、あなたたちはきっと神様を指し示すしるしに変えられるという意味です。不安に思うあなたたちが、王冠のように輝くように変えられて、神様の存在を証明するようになるということです。大きな希望が語られています。

4節の「あなた」も私たちのことです。自分は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。特にコロナにかかるならば、隔離され、強く見捨てられたと感じるでしょう。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。土地とは当時の人々にとっては人生そのものでした。土地が荒廃するすること、つまり人生がめちゃくちゃになったように思えることがあっても、神様はあなたを見捨てないと語られています。あなたはどんな状況になっても、神様から「望まれるもの」と呼ばれるのです。あなたに夫が与えられるとあります。それはつまり、あなたの人生を共に歩む方、神様が与えられるということです。神様があなたと共にいることを望んでいます。あなたがどう思うかは関係ありません。絶望しようが、神はいないと思おうが関係ありません。神があなたを求めて、一緒にいて下さるのです。一方的に一緒にいて下さるのです。

5節、それは結婚するように神様が共にいてくださるということです。神様は私たちと一緒にいてくださり、私たちの再スタートに一緒にいてくださるということです。私たちの神様は、私たちと共にいることを喜びとしてくださるということです。

このように神様は、イスラエルの人々の再スタートに共にいるお方です。そして共にいることは神様の望みであり、喜びであると語っています。

そのみ言葉と共に、イスラエルの人々は新しい生活を再スタートしました。めちゃくちゃにされた人生を、町を、信仰を、1年を再スタートさせたのです。神様に祈ってもなにも状況は変わらないかもしれません。祈って町が再建されるわけではありません。祈ったのに、神殿は壊されてしましました。

でも人々が信じたこと、それはつらい時も神様が共にいたということ。そしてこれからも様々なことがあるけれども、必ず神様が共にいるということ。それを信じたのです。神は黙っていないと信じたのです。

私たちもそれを信じてこの1年をスタートしたいのです。そこにはとても温かい希望があるのではないでしょうか。

私たちの1年はコロナに壊されて、再建し、また壊される、またそんな一年になるでしょう。でも神の言葉は決して止まりません。私たちはその神の言葉をまた今年も聞き続けましょう。

希望を失うことがあるかもしれません。神はどこにいった「エリ、エリ、レバサバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と聞きたくなる時もあるでしょうか。でも神様は必ず共にいてくださいます。この1年も神様は1年じゅう、私たちと共にいて下さるお方です。私たちと共にいることを、喜びとしてくださるお方です

激動の1年が今日からスタートしました。でも神様が共にいてくださる1年のスタートでもあります。この1年もまた、決して黙らない、決して途絶えない神様のみ言葉を聞きながら、希望を持って共に歩みましょう。お祈りいたします。