【全文】「わたしたちも礼拝に集いたい」マルコ3章20節~35節

【はじめに】

本日はこの平塚バプテスト教会の礼拝に招いて下さりありがとうございます。平塚教会の礼拝は、平野先生の就任式と今回で二回目になりますが、平塚パトロールの炊き出しで毎月この教会を訪れており、私にとっては身近な教会に感じております。

さて今日のテーマはセクシャルマイノリティです。セクシャルマイノリティは、LGBTQとかSOGIなど様々な呼び方がありますが、今日はLGBTという言い方を用います。LGBTについて平塚教会のみなさんのお手元に「キリストの風」集会からのアンケート依頼文があるでしょうか。依頼文にある説明を御覧下さい。Lはレズビアン/女性同性愛者、Gはゲイ/男性同性愛者、Bはバイセクシュアル/両性愛者、Tはトランスジェンダー/性同一性障害者や性別違和など、と説明されています。性のあり方は多様なのですが、この四つの頭文字を取って、全体を呼ぶわけです。

ふじみキリスト教会ではLGBTの学びを2019年に行いました。きっかけは教会に「キリストの風」集会からのアンケートが来たことでした。主任牧師が返事を書いていたらこれは牧師個人の意見としてではなく、教会として返さなければならないと気づき執事会に相談がありました。そこでまず執事会で学習会をすることになり、主任牧師から学習会を担当してくれないか、と依頼され私は二つ返事でOKしました。私が引き受けたのには理由がありました。それは私がこれまで何もしてこなかったことへのおわびの気持ちからでした。LGBTの友人たちの苦悩を知りながら、私は何もしてきませんでした。

私自身を振り返ると、若い頃LGBTをバカにしていました。高校生の時、同級生で物腰や口調が柔らかい同級生に対して「AIDS」と呼んでからかい、大学生のときに海外旅行から帰って来た友人が、旅先で同じ男性から口説かれた話しを聞いて一緒に笑う、そんな者でした。そんな私は、あるとき「自分はレズビアンなんです」という告白を聞いてはじめて身近に感じ、また真面目な事なのだと知りました。それからLGBTのクリスチャンたちと出会い、礼拝に参加することさえも決して簡単なことではない事、自分のことを友人に伝える事が、実は命がけでありどれだけ勇気のいることなのかを知りました。また自分が知らないだけで自分の周りに多くのLGBTの方がいることを意識するようになりました。牧師でゲイである友人の口癖はこうです。「気づいていないだけで、神さまもゲイも、いつもあなたのそばにいる」。最近その友人が本を出しました。その本のタイトルが『あなたが気づかないだけで/神様もゲイも/いつもあなたのそばにいる』です。

しかし、知っていながら私は教会でいままで何もしてきませんでした。そんなとき、「キリストの風」集会のアンケートが教会に届いたのです。やらなければ。否、やりたいと思いました。執事会で一年かけて学び、そして翌年教会全体で2回の学習会を開きました。この学びを受けて次にどう行動するか、という段階で新型コロナと緊急事態宣言で中断し今日に至っています。そんな折り、このような機会が与えられてありがたいと思っています。

 

【「キリストの風」集会からの問いかけ】

みなさんのお手元に「キリストの風」集会からのアンケートがあるでしょうか。このアンケートから「私たちも礼拝に参加したい」「信仰の交わりに加わりたい」という切実な願いが感じられます。礼拝に加われない現実があるわけです。それは同時に「あなたの教会の信仰の交わりに私たちは加われますか」という問いかけになっています。この問いかけに私自身、そして教会自身が問われているのです。学習会では様々な意見が出されました。積極的に同意する声がたくさん聞かれました。と同時に、どう考えれば良いのか悩む声や、困惑する声もありました。そして学びの後で私に直接、これこれが自分には納得できないんだ、と戸惑いを訴えてくれた方もありました。そのときは「どう答えたら良いんだろう」と必死でしたが、後で、嬉しかった。それは正直な気持ちを話してくれたのは、私の事を信頼してくれているからです。本当にありがたいです。

ところでイエスだったらどうされるでしょう。それを今日の聖書の箇所から考えたいのです。この箇所で、これまで私には二つひっかかるところがありました。ひとつは28−29節の神を冒瀆してもよいが聖霊を冒瀆してはだめ、というところ。私たちは神、イエス・キリスト、聖霊は同じ三位一体だと学びます。するとここはどんな意味なんだと。もう一つは母に対して「わたしの母とはだれか」ってちょっと冷たすぎないか、と。しかし今では、今日の箇所が非常に好きになりました。

 

【イエスのまなざし】

この物語の前の流れはこうです。イエスは活動を始めてから、漁師を弟子にし、徴税人を弟子にし、汚れた霊に取り憑かれた人、病人、障害のある人をいやし、また教え、と活動しながら町々村々を巡ります。イエスの周りにあつまってくるのは行き場のない群衆たち、病人、障害を持った人。弟子たちも漁師はましな方で、徴税人やら怪しげな人たち。だから弟子たちと一緒に食事をしているとファリサイ派の人々からは後ろ指を指されます。「イエスは罪人、徴税人と一緒に食事しているよ。そんなのありえねー」と。当時「ちゃんとした人」は、そんな「罪人」たちと一緒にはいません。イメージを膨らませながら情景を思い描いてみると、今日の場面はこんな感じでしょうか。

 

イエスはその日もあちこち尋ね歩き、活動していました。もう夕方になったので「じゃあ帰ろう」と、ここんところお世話になっている家に帰って来ました。するとどこからか分からないが、群衆が集まって来る。また教えたり、いやしたりと大わらわ。イエスも弟子もパンを食べる暇もないくらい。そこへイエスの家族がやってきます。

なぜかというと、実はイエスの実家の周りで悪い噂が流れていたのです。「ちょっとちょっと知ってる?マリアちゃんとこの息子のイエスがおかしくなったんだって」「どうして?」「罪人と一緒に食事しているらしいよ」「え〜マリアちゃん大変。うちの子には付き合わないように言っとこう」。家族の周りで人々がそう言い始めます。するとそれを聞いた兄弟が「ちょっとお母さん聞いた。イエスを何とかして!」「もうとっ捕まえてこよう」。とそんなことこんなでかけつけて来たのでしょう。

 

家族が着いた頃、エルサレムから来た律法学者の先生方が、ごちゃごちゃ言い始めています。「ちょっとあれ何だ」「いやしをしてるみたいだが、自分が悪霊に取り付かれていて、悪霊の力でいやしてるんじゃないの」とそんなことを群衆たちの外から遠巻きに話しています。そこでイエスが「何バカなことを言ってるんだ」とたとえで反論するわけです。ここで28節と29節に注目下さい。28節「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」は人間に対する神の無条件の赦しが語られています。神への冒瀆さえも赦されると。これはものすごい宣言です。そして29節が続きます「しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。「聖霊を冒瀆する」とはこういうことです。聖霊とは神が私たちに働いている働きです。それを冒瀆するとは、いま神が働いていることを否定すること。つまり神の赦しや祝福を否定すること。神はどんな人に対しても働いている。神の赦し、祝福は全ての人に与えられている。そのことを否定してはいけない、と。

ここでイエスのすぐ周りには弟子、そして群衆がいます。当時「罪人」と言われた人々です。当時のユダヤの常識では、イエスの周りに集まっていたような病人、障害者、また血を扱うような職業に就いていた人々、みな「罪人」と呼ばれていました。その人の病気が治ったり、またその職業を離れて律法を守る生活をしないと神から赦されないと考えられていた。だからイエスのもとに集まって来た人々はずっと赦されないまま。そんな、行くあてのない寄る辺ない人々がイエスのもとに集まっていたのです。そんな社会の常識に対してイエスの見方は違います。31−35節の場面では、再びイエスの家族が登場します。家族は到着したけれど、その「罪人」たちの中に入っていこうとしません。人をやってイエスを呼びにいきます。そのとき、イエスの周りにいた人々はどんな思いになったでしょう。「ああ、やっぱりイエスさまは私たちなんかと一緒にいちゃいけない人なんだ」「家に帰っていくんだ」と寂しい眼差しでイエスを見ていた、そして自分たちが「罪人」なんだ、ということを思い知らされていたのではないでしょうか。するとイエスは自分の周りを見渡してこう言います「見なさい。ここに私の母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。この言葉は家族に向かっての言葉ではありません。なぜなら家族は近くにいないのです。これはイエスを囲む人々にむけての言葉です。当時「罪人」と呼ばれ、神から遠いと考えられていた人々に対して、イエスは「あなたがたは神の御心を行う人だ」と語ります。つまりイエスは彼らのことを「罪人」とは考えていないのです。神が働いている人々。神のゆるしの中にいる人々。そうイエスはみているのです。だからこそ、「この人たちには神が働いていない」「悪霊の働きだ」なんていうことはゆるされない。この人たちに神が働いていることを否定しては絶対にだめだ、というのです。

 

【私たちの立つところ】

 イエスの家族が気にしたのは噂話、つまり世間体。律法学者が気にしたのは誰が正しい人で誰が罪人かということ、イエスが気にしたのはこの目の前の人々、群衆。視点が全く違います。この物語から「キリストの風」集会からの問いを考えたいのです。

 当時の「罪人」は個人的な過ちを犯した人々というよりも職業や身分に近いようです。徴税人、血を扱う食肉や皮なめしを生業にしている人々、病い、障害を持った人々。それは自分ではかえられないもの、現代のLGBTもそうです。LGBTは神に反している、罪人だ、聖書もNOと言っている、そう考えているクリスチャン指導者たちは沢山います。しかし私の聖書理解では、聖書のなかで、LGBTを中心主題に取りあげて直接否定している箇所は一つもありません。ただし、間接的に否定していると解釈できる箇所は何カ所かあります。そしてその箇所について、聖書はLGBTを否定しているのかいないのかで議論があるわけです。この議論の決着は簡単ではありません。議論はずっと続いています。

 ここで大切な事、心に留めておきたい事は、議論が続く限り、LGBTの人々は礼拝に出られない、ということです。礼拝に参加したい、一緒に御言葉を聞きたい、一緒に賛美したい、一緒に祈りたい、そんな人々が礼拝から締め出されたままになるのです。私たちはつい「何が正しいのか」にこだわり、ときに自分を安心させるために「こうだ」と決め、結果として壁を作ってはいないでしょうか。しかし「何が正しいか」は果たして人間がそう簡単に判断できるものでしょうか。誰かに対して「あなたは罪人だ」などとは私には言えません。そしてまた誰が言えるのでしょう。私たちはただ、この私を受け入れてくれる神に感謝するだけです。私の牧師としての人生を振り返ると罪ばかり。言葉で人を傷つけ、行いで人を躓かせてきました。私たちが神の前に集えるのはただ、神によってゆるされているからです。私たちは何か条件を満たしているから、とか何かができるから、何かをしているから神にゆるされているわけではないのです。イエス・キリストが「いいよ」「私のもとに来なさい」と言ってくれるから。ただそれだけです。私たちはそんな神のゆるし、なんの条件もない無条件のゆるし、神の愛への感謝から始めるしかないのです。そしてそこから始めればよいのです。

お祈りします。