【全文】「キリスト教とLGBTQIA」サムエル記上18章1~4節、19章1~2節

 

「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」サムエル記上18章1節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。それぞれの場所からですが、共に礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちと次に会う時、一回り大きくなっていることでしょう。会うことができる日を楽しみにしています。私たちはこども、小さくされている人を大切にしてゆきましょう。

今月私たちはジェンダー・男女平等とセクシャルマイノリティー・性的少数者について考えています。とても難しい事柄で、語る言葉には必ず限界があります。でも沈黙していてはいけないことでもあると思います。先週は草島先生をお呼びして、様々な性を持っている人がいるということを学びました。LGBTQIAとしましょう。異性に対して魅力を感じる人だけではなく、同性に魅力を感じる人(LG)、両方に感じる人(B)、身体と心が違う性であるという人(T)、自分が男性か女性かどちらかを決めないという人(Q:クエスチョニング)がいます。さらに生まれつき男女両方の身体的特徴を持つ人(I:インターセックス)、誰にも感じない人(A:アセクシャル)という人々がいます。これらの人は性的少数者(セクシャルマイノリティーやLGBTQIA)と呼ばれます。これは病気ではありません。薬や治療で治すものではありません。そのひとらしさの一つです。

キリスト教ではこのことをどのように受け止めているでしょうか。キリスト教ではセクシャルマイノリティー、特に同性愛を「罪」であるとする教会が多くあります。例えば私たちが多大な支援を受けてきたアメリカ南部バプテストもそうです。「罪」「罪深い欲望」「人間の堕落」だと厳しく批判しています。

ある当事者は、ミッションスクールの先生に「オカマは地獄に落ちる」と言われたといいます。キリスト教はLGBTQIAを、異性では満足できない人の性的不品行の罪として断罪してきました。いまでもそのように考える教会は多くあります。インターネットで検索すると日本でもそのような理解をする教会がまず目に留まります。

LGBTQIAを歓迎する教会といっても様々で注意が必要です。LGBTQIAの人たちを「罪人」として迎える教会もあるからです。神は男と女に創造したのに、男同士、女同士でいるのは、神の創造に反する「罪」だとするのです。そして異性に興味を持つ多数派に「悔い改める」ことを祈り求める教会も多くあります。教会には歓迎するがLGBTQIAをやめたら洗礼を受けることができるとする教会もあります。

ありのままで歓迎しますということを、積極的に公けにする教会は実は少ないように感じます。だから先週お配りしたアンケートが必要なのでしょう。LGBTQIAの人々にとって安心して集える教会は少なく、そしてそれを見分けることも難しいのが現状です。先週の草島先生の宣教にもあった「私たちも礼拝に集いたい」という言葉が本当に聞こえてくるようです。

では私たちの教会はどうでしょうか。昨年の4月から出席者数を男女に分けて数えることをやめました。また新来者に男女を聞くことをやめました(なぜ聞いていたのでしょうか?)。兄・姉・兄弟・姉妹という性別によって呼びわけることも週報ではやめました。それは男女で役割を分けないという事と、様々な性のありかたを受け止めてゆきたいという願いからそのようにしました。私たちの教会で、私たちの信仰においてLGBTQIAは「罪」でしょうか。

私個人はまったくこのことを罪だとは思いません。私は神様がLGBTQIAの人々をそのまま愛し、生きよと言っていると信じます。決して罪とは思いません。そもそも罪とは何でしょうか。様々に表現できますがひとつに、罪とは「対等な関係でないこと」と言えると思います。

対等ではない関係に罪があります。相手に上下関係を押し付けること、自由を奪うこと、偏見と差別をもって命に優劣をつけようとするのが罪といえるでしょう。そして反対に愛とは平等・対等で信頼できる関係を言うのではないでしょうか。

ですから、たとえ異性と共にいても、そこに対等な関係が無ければ愛ではないと思います。愛が異性に向けられるか、同性に向けられるかが罪か愛かの違いではありません。相手の命・性を暴力的に扱い、奪い、否定し、対等でないならばそれこそが罪です。同性・異性どちらに向けられるかに関わらず、対等で信頼のある関係が愛ではないでしょうか。性に優劣をつけず、対等な関係でいることが愛の関係でしょう。まず自分はどの性別であるか、どの性別を愛するかにかかわらず、対等な関係、信頼しあえる関係が大事だと思います。それは男女平等でも見てきたことです。私はLGBTQIAを罪と思いません。それぞれの性と命を、自分の命・性と同じように大切な命・性として尊重したいと思います。

今日は聖書にある、二人の男性の物語を読みます。彼らは「深い愛情」で結ばれていた二人です。私たちに身近な聖書の物語です。私たちはこれまでこの話を「男の友情」と受け取ってきたかもしれません。しかしもう一度この物語をLGBTQIAの視点で読み直してみたいのです。この物語から同性同士の深い愛情、対等で信頼し合う深い愛情を読み取ってゆきたいのです。

 

 

 今日はダビデとヨナタンの物語を読みます。当時イスラエルの王として立っていたのはサウルという王様でした。サウル王は様々な国と戦争をしていましたが、その中でもペリシテ人との戦いは困難な戦いでした。しかしその戦場にダビデという少年が現れます。彼は戦った経験などない、小さな少年で、羊飼いでした。羊飼いとはとても身分の低い仕事でした。しかしダビデは小さな石一つで、ペリシテ軍の最大の巨人、ゴリアテを倒してしまいました。そしてその戦いは勝利をしたのです。それを見ていたサウル王はダビデを呼んで、すぐに自分の軍隊にいれるというのが今日の場面です。

サウル王とダビデの対面の場面にはヨナタンという息子、王子がいました。この場面はサウル王とダビデの初めての出会いということと同時に、ヨナタンとダビデの二人の最初の出会いでもあります。

1節にはこうあります「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」。ヨナタンという男性は深い愛情を同性であるダビデに感じました。そして魂が、自分の存在のすべてがダビデに向けられるようになったのです。また3節には、ヨナタンが自分の上着、来ているものや剣や弓などの一式すべてをダビデに与えてしまったとあります。そしてもう一度、ヨナタンがダビデを自分自身のように愛したという言葉が繰り返されています。

この二人は本来、戦争で手柄を挙げた羊飼いと、王子という圧倒的な上下関係の中にありました。しかし深い愛情を持ったヨナタンはダビデとの関係をまったく対等に持とうとします。自分の着ているもの、持ち物を分け、羊飼いのダビデと対等な関係になろうとしています。相手に尊敬と敬意を持ち、一人の人間として向き合ったのです。3節には「彼と契約を結び」ともあります。どのような契約だったのでしょうか。それはきっとあなたを傷つけないという、平和な契約だったでしょう。

しかしすぐにダビデはその実績からサウル王に憎まれることになります。サウル王はこの勝利で英雄視されるダビデが疎ましくなったのです。19章1節を読むとダビデを殺すようにとサウル王は命じています。

しかしここでもヨナタンはその「深い愛情」からダビデの逃亡を手助けすることになりました。ここではまるで、僕が王様を助けるように王子が羊飼いだったダビデを助けています。この二人がとても親密な関係であったことを描いているとともに、対等な関係であったということも丁寧に描いています。ヨナタンの愛は20章17節でも三度語られています「ダビデを自分自身のように愛していた」とあります。

やがてヨナタンは戦争で死んでしまいますが、ダビデはヨナタンの死を悲しんだ歌が聖書に残されています。サムエル下1章26節にはこうあります。「あなたを思ってわたしは悲しむ 兄弟ヨナタンよ、まことの喜び 女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。」

この二人の男性は深い愛情をもって接していました。同性愛とも十分に解釈できると思います。そしてそれは罪として扱われていません。美しい同性の愛情として聖書には記録されています。

このように、多様な性・愛の在り方が聖書にも記録されています。それは決して罪としてではなく、相互の対等な関係として描かれます。同性の深い愛情が、美しいものとして描かれています。

私たちはこの個所をどのように読むでしょうか。私はこの個所から多様な愛、性の在り方に心がひらかれてゆきます。深い愛情は異性の間だけではなく、同性の間にも同じようにあると知らされます。それはとても身近な物語でした。私たちが今までよく知っていた物語でした。しかしその関係によく気づかなかった物語です。そしてそれは確かに同性同士の愛です。深い愛です。

そして私は、その裏側にある、愛に見えても本当は対等ではない関係に注意をしたいとも思います。愛と言って、本当は差別や偏見が含まれていないかを注意したいと思います。

多様な性を否定し、「罪」として「治す」ことを「愛」という人がいます。でも本当にそうでしょうか。神様は男と女を作っただから男と女で役割を二つに分けることが愛だと語る人がいます。本当にそうでしょうか。私は男か女か、LGBTQIAかどうか、そのことよりも、一人一人の間に対等な関係があるか。差別や偏見が含まれていないかに注目をしたいと思っています。

私たちは1カ月、ジェンダーとセクシャルマイノリティーについて聖書から考えてきました。私たちはすべての命・性と対等に向き合いたいのです。すべての性が平等に生きることができる社会と教会を目指したいのです。私たちの間にある性差別、性的少数者への差別が無くなるように共に祈り、共に礼拝してゆきたい、共に働いてゆきたいと思います。お祈りをいたします。